飲んだくれ・タカリのクリスマスは禁止?〜文豪チャールズ・ディケンズの変えたピューリタンの国、ボストン・アメリカ
今から30年前、私はアメリカのボストン・ローガン国際空港に降り立った。季節は真冬の12月。ちょうど、数日前にブリザードがあり、一面氷に覆われ、気温はマイナス20度ほどと非常に寒かった。東京からやってきた私には、ビクトリア建築のレンガ造りの瀟洒な街並みが新鮮で、それにマッチした赤いリボンや緑の針葉樹のクリスマスツリー、リースの装飾が至る所に施されていたこともあり、寒さも忘れてひとしきり見入ったものだった。ボストン近郊は春の花、夏の休暇、秋の紅葉、冬のクリスマスと四季のアクセントが毎年楽しめるが、冬はなんと言ってもクリスマスの装飾。ところが、17世紀のピューリタン入植者の生活を復元する博物館プリマスプランテーション(Plymouth Plantation) (1)にいったときのこと。「敬虔なキリスト教徒であるピューリタン(Puritan、清教徒)は、クリスマスを祝わない」と解説しているのを聞き、「え?」と。クリスマスはキリスト教徒にとって一大イベントではなかったか?
ピューリタンの新天地であるボストンは、今では、確かに盛大にクリスマスを祝っている。そうなるまでには、イギリスの文豪チャールズ・ディケンズが命を削ったアメリカ公演があった。ボストンには、ディケンズにまつわる場所や展示も多く残されており、それも合わせて振り返ってみたい。
寛容でないピューリタン(清教徒)の入植地、ボストン
ピューリタンは、16-17世紀にイングランド王国で活動したプロテスタントで、ローマ・カトリックやイングランド国教会の豪奢で腐敗した一面を嫌い、簡素で清廉な生活を送ることを信条とした諸派を総合した呼称だ。その中の一派は、宗教的自由を求めてアメリカに入植し、ニューイングランドを形成してゆく。1620年、最初のピューリタンはメイフラワー号に乗り、ボストンの南に位置するプリマスに辿り着いた (3)。清教徒は、宗教の自由を求めてアメリカにきたが、自分を厳しく律する反面、他の宗教には全く寛容でなく、自分の宗教を厳しく他人に強制した。
どの程度寛容でなかったか、わかるエピソードがある。宗教家のアン・ハッチンソン(Anne Hutchinson)と、クエーカー(Quaker)教徒のメアリー・ダイアー(Mary Barrett Dyer)のものが有名だ。アン・ハッチンソンは、「神は、聖職者を通してだけでなく各個人に語りかける」と信仰至上主義を説き、また女性の尊厳と権利も説いていた。宗教の統一性を強制していた宗教階級にあった聖職者達は、彼女を脅威と感じ、迫害していった。最終的には裁判でマサチューセッツ湾植民地(Massachusetts Bay Colony)から追放となり、1643年にコネチカット州でインディアンに襲撃して殺害されている (4)。アン・ハッチンソンに教えを受け、やはり17世紀の清教徒革命の中から生まれた、教会の儀式化に反対し霊的体験を重んじ信仰至上主義に近い教えを説いていたクエーカーの教徒となったメアリー・ダイアーは、その信念のもとに、反クエーカー教法令が敷かれていたマサチューセッツ湾植民地で布教を続けていた。だが、そんな彼女は、クエーカー教徒であり続けた罪状によって、1660年6月1日ボストンコモンにて絞首刑に処せられている (5)。
かつて、ボストンコモン(Boston Common)は多目的の公共の広場で、牛を飼ったり、墓場にとして使われていたほか、処刑場でもあった (6)。ここにあったGreat Elmという樹齢200年以上の大きな楡の木が絞首刑に使われていたという。メアリー・ダイアーもおそらくここで処刑された (7)。
さて、ピューリタンは牧師の役割を重視し、聖書を読むことを推奨していたため、このあたりの識字率は高かった。ボストン市は1630年に設立されたが、牧師の養成のために、早速ボストン・ラテン学校(Boston Latin School)が1635年に、ハーバード大(Harvard College)が1636年に設置された。聖書はヘブライ語で書かれていたため、ハーハード大では1年生でへブライ語が必修であったが、ここでヘブライ語を教えるために招かれたジュダ・モニス(Judah Monis)はユダヤ人であったため、やはり雇用に際してキリスト教に改宗することを迫られた (8)。相当、非寛容だったようだ。
ピューリタンによる「クリスマス禁止令」!
ピューリタンのつくったマサチューセッツ植民地では、人前でタバコを吸う、酔っ払うこと、カードやサイコロなどを家に持つこと、豪奢な服を着ること、劇を見たり演じたりすること、音楽を聴いたり奏でたりすること、日曜のミサを欠席すること、不倫などは違法とされていた。当時、ピューリタンでない人をマサチューセッツに埋葬することすら禁じられていた。違反すると、罰金、投獄だけでなく、下手をすると絞首刑の可能性もあった (9)。ちなみに、マサチューセッツ州ではいまだに日曜の10時以前の酒類の販売が禁止されている(筆者の来た30年前は、日曜は終日酒類の販売が禁止されていた)。これらは、ピューリタンのブルー・ロー(Blue Law)と言われている (10)。
では、クリスマスがなぜいけないのだろうか。当時、ピューリタンの出身地のイングランドでは、クリスマスといったら、ワセーリング(Wassailing)といって、お酒を飲み酔っ払って、貧しいものは裕福な家を勝手に訪ね、ものを乞うということが行われていた (11)。家の人が拒否すると呪われたり、嫌がらせされたということで、今のハロウィーンみたいな感じだろう。厳格なピューリタンは、そんなクリスマスを許容できなかったようだ。
さて、この耳に慣れたクリスマスソングだが、この、2番以降をご存知だろうか。
We wish you a merry Christmas(あなたに楽しいクリスマスを)
We wish you a merry Christmas(あなたに楽しいクリスマスを)
We wish you a merry Christmas and a happy new year(あなたに楽しいクリスマスと幸せな新年を)
….
Oh, bring us some figgy pudding(イチヂクのプディングが食べたい)
Oh, bring us some figgy pudding(イチヂクのプディングが食べたい)
Oh, bring us some figgy pudding(イチヂクのプディングが食べたい)
And bring it right here(ここに持ってきて!)
….
We won't go until we get some(プディングをもらうまでここにいるよ)
We won't go until we get some(プディングをもらうまでここにいるよ)
We won't go until we get some(プディングをもらうまでここにいるよ)
So bring it right here(だからここへ持ってきて!)
よくよく聞くと、これは最後、タカリで終わっている。これは清廉をモットーとするピューリタン的には、けしからん、ということになった。そこで、マサチューセッツ植民地には、1659年にブラッドフォード知事(William Bradford)からクリスマス禁止令が出され、違反者には5シリングの罰金(現在の$48ドルほどに当たる)が課されることとなった (12,13)。1681年にはこの法律自体は諸処の事情で廃止されるものの、その影響は長く残っていった。
徐々に復権するクリスマス
こんな訳で、アメリカでは2世紀もの間、クリスマスが祝われる雰囲気はなかったが、19世紀にそれが変わり始める。19世紀中頃、アメリカには大量の移民が押し寄せる。有名なのが、1840年代のジャガイモ飢饉を契機とするアイルランド移民だが (14)、1850年代からドイツ、東欧、イタリアなどからの移民も大量に流入し、彼らの信仰であったローマ・カトリック、イングランド国教会なども持ち込まれてくる (15)。また、ここではピューリタンが多数を占めていたものの、ボストンの裕福層はイングランド国教会を続けて信仰しているものも多く、この人たちのために、オルガンが設置されている教会のキングス・チャペル(Kings Chapel)が1688年に建設された (15)。また、オールド・ノースチャーチ(Old North Church, 1723年) (16)もイングランド国教会のメンバーが増えてきたため建設され、この脈々とした流れは生きていた。
19世紀中頃の変化に応え、ボストンのノースエンドにある聖ステファン教会(St. Stephen's Church)は、元々New North Churchとして1802-1804年にピューリタンの教会として建設されたが、1862年にはローマ・カトリック教会に売却された (17)。
ちなみに、ジョン・F・ケネディはアイルランド系だが(アイルランドはローマ・カトリックの国)、母親のローズ・ケネディ(Rose Elizabeth Fitzgerald Kennedy )はアイルランド移民が多数住みついたボストンのノースエンドで育ち、ここで洗礼を受け、葬儀も行われている (18)。
ドイツ人のチャールズ・フォーレン(Charles Follen)は、ハーバード大学のドイツ語の教授であったが、1832年ケンブリッジ市(ボストン市の隣、ハーバード大学のある市)にある自宅のパーティーでクリスマスツリーを飾るドイツの習慣を始め、ドイツのしきたりをマサチューセッツに伝えた (20)。イングランドでは、ビクトリア女王の夫であった、ドイツ人のアルバート(Prince Albert)によって、クリスマスツリーの文化が英国王室に持ち込まれた (21)。この綺麗な装飾が、当時非常に人気のあった雑誌「Godey's Lady's Book」に1850年、そして再度1860年に取り上げられると、このクリスマスの祝い方が徐々に人気を増していったという (22)。こんな動きを受け、1856年には、大統領フランクリン・ピアース(Franklin Pierce)が初めてホワイトハウスにクリスマスツリーを設置した (23)。
このように、ドイツ、アイルランドなどクリスマスを祝う移民が増え、文化的影響が増加するにつれ、クリスマスの文化はだんだんアメリカに浸透していった。
近代的「サンタ」の確立
では、今の「サンタ、プレゼント」はどのように形成されていったのだろうか。スリーピーホローの伝説(The Legend Of Sleepy Hollow)で知られるニューヨークの作家ワシントン・アーヴィング(Washington Irving)は、そこに住んでいたオランダ人が、クリスマスになると聖ニコラス(St. Nicholas=Sinterklaas)が来て、子供達に贈り物をするクリスマスを観察していた (24)。1819年、ペンネームの「Geoffrey Crayon」という名前で出した絵本で、空飛ぶソリに乗るサンタが描かれている (25)のが、今のサンタの原型と考えられている。
1823年にアメリカのニューヨーク州の新聞「センティネル(Sentinel)」に無名で発表された「サンタクロースがやってきた(A Visit from St. Nicholas)」という詩には、クリスマスイブに、8匹のトナカイの引くそりに乗った、小太りで髭を生やし、ほーほっほ、と笑うサンタクロースが煙突から降りてきて靴下に贈り物を入れるとうお話が描かれている。それまで、クリスマスの習慣は地域によって差があったが、これが現在のアメリカ、ひいては今の世界のクリスマスとサンタクロースのイメージを作り上げたと言われている (26)。作者は、ワシントン・アーヴィングの友人であったクレメント・ムーア(Clement C. Moore)であると言われている。このお話では、サンタは「Happy Christmas to all」という。現在のサンタ、クリスマスのイメージは、クレメント・ムーアとワシントン・アーヴィングによって19世紀中頃にアメリカで形作られたものだ。
チャールズ・ディケンズ、ボストンに来訪す
チャールズ・ディケンズ(Charles John Huffam Dickens)といったら、「デイビッド・コパフィールド(David Copperfield)」「クリスマスキャロル(A Christmas Carol)」などで押しも押されもしないイギリスの大作家だが、ボストンを2回訪れている。彼は、「クリスマスキャロル」を通してボストン、そしてアメリカに多大な影響を与えることになる。
1843年、クリスマス・キャロルが出版されると、瞬く間に世界中でヒットする (28)。その後の1867年11月19日、ディケンズは2度目のアメリカ訪問をする。今回の目的は、アメリカでクリスマスキャロルなどの朗読会を開くことだ。彼は世界中で大人気の作家であり、大量の報道陣が詰めかけたため、ボストン港についたら極秘ルートで宿泊先のパーカーハウス(Parker House、現オムニ・パーカーハウスOmni Parker House)に入ることとなった。外に出れば、彼を一目みよう、触ってみようとするだけでなく、コートの毛をむしり取って記念としようとする輩が後をたたず、彼が何をするにも護衛要員がついた (29)。
彼がここを宿泊先に選んだのにはいくつかの理由がある。パーカーハウスは1855年にオープンし、瞬く間に世界中で有名なホテルとなった (30)。彼は滞在中、大理石をふんだんに使った建築が美しく、部屋代は高いが、お湯と水が出て快適だ、と娘に手紙を送っている。彼は、アメリカの他の都市への出張中も通して5ヶ月間ここを借りていた。
それまでのアメリカの宿泊施設は、部屋代に食事が含まれていて、食事は時間が決まっており、宿泊客は一斉に食事をとるのが普通だったが、ここではヨーロッパ風に部屋代のみチャージ、食事は各々の時間や選択に任せるなど、進歩的なサービスを提供した。オーナーはホテルで出す食事を最高レベルにしたいと考え、当時アメリカで最高峰のフレンチシェフ・アネジン(Chef Augustine François Anezin)を雇用していた。彼によって発明されたボストンクリームパイ (31)やパーカーロール (32)は今でもホテルの名物としてレストランで出されている。パパラッチに追われて護衛要員がついており、食事はほとんどパーカーハウスで済ませていたディケンズも食べたものと思われる。
パーカーハウスは、文化人の集う場所でもあった。土曜クラブ(Saturday Club)はここで1855年に発足し、今でも続く科学者、作家、哲学者など各方面の知識人を集めたクラブで、「ポールリビアの疾駆(Paul Revere's Ride)」などで知られるヘンリー・ロングフェロー(Henry Wadsworth Longfellow)(32)、「緋文字(The Scarlet Letter)」のナサニエル・ホーソン (Nathaniel Hawthorne) (33)、「自己信頼(Self-Reliance)」のラルフ・エマソン(Ralph Waldo Emerson) (34)、「ウォールデン森の生活(Walden)」のヘンリー・デービッド・ソロー (Henry David Thoreau) (35)など当代随一のアメリカの文豪達が毎土曜に集っていた。エマソンやロングフェローと親交のあったディケンズもこれを知っており、滞在中土曜クラブで朗読会も開催している。
快適で、文化的交流もできたディケンズは、ここで充実した時を過ごしていた。彼は他にも、長時間の散歩をしたりしていたようだ。当時ヨーロッパにも知られていたボストンのセンセーショナルなパークマン医師惨殺事件の現場も見たいと切望、訪れたという。これについては、拙著の「アメリカ初、歯科照合で有罪〜19世紀ハーバード大医学部猟奇殺人事件」を参照されたい。
ディケンズのクリスマス・キャロルパフォーマンス
さて、ディケンズのボストン訪問は、2世紀にわたる停滞を経てクリスマスに対する興味がちょうど増してきている時期と重なった。クリスマスキャロルに描かれるディケンズのクリスマスのイメージは、楽しい家庭的なイベントであるというもので、ピューリタンの思うワセーリングとは一線を画していた (40,41)。彼は、公演ではクリスマスキャロルを単に朗読するだけではなかった。彼はこの時、健康を害しており、風邪もひいていたが、自らがスクルージやボブ・クラチットになりきり、1人で各登場人物を演じながら全身全霊で朗読したのだった。クリスマスキャロルは長くないため、内容は暗記していたが、特別に短縮版を作る念の入れようだった。公演中はほとんどテキストを見ることはなく、アドリブも多用していたという (42)。
ディケンズは、準備にも余念がなかった。ホテルの彼の部屋には大きい鏡があり、毎日それをみて廊下に聞こえるほど大声で練習していたという。この鏡は、1926年のホテルの解体の際に回収され、現在でも新しいオムニ・パーカーハウスのメザニンレベルにあり、見ることができる (43)。
ボストンでの彼の公演は、隣のトレモント劇場(Tremont Theater)で行われた。舞台はガスライトで照らされ、彼の姿や表情がよく見えるように工夫されていた。2,000人の聴衆の前で夜8時から1時間半の熱演だったという。聴衆は彼の演技、朗読を見て時には笑い、また涙したという (44,45)。
その後、ディケンズは、1868年4月まで150日の間にボストンやニューヨークだけでなく、南はワシントンDC、北はポートランド(メイン州)、西はバッファロー(ニューヨーク州)まで訪問し、計76朗読を決行したのだった。ボストンやニューヨークの公演ではダフ屋が出るほどの人気であった (44)。
クリスマスキャロルには、「メリー・クリスマス(Merry Christmas)」が多用されている。イングランドでは、クレメント・ムーアの詩のように「Happy Christmas to All!」が同じぐらいに使われるが、アメリカでは、圧倒的にメリー・クリスマスだ(最近では、他の宗教に配慮しHappy Holidaysというが)。アメリカで、メリー・クリスマスが使われるようになったのは、ディケンズがクリスマスキャロルで使ったため、というのが定説だ。こうして、アメリカのクリスマス文化に多大な影響を与えたディケンズは、1868年4月8日、ボストンで最後の公演を行い、ニューヨークを経てイギリスに帰国する。彼は健康を痛風などですでに害しており、それから2年後58歳の若さで亡くなる (45)。アメリカ公演に全身全霊を捧げていたのであろう。
1925年、パーカーハウスは大規模なリノベーションに入る。1926年の解体作業の際、「古い建物はすべて破棄」と指示を受けていた業者だったが、ディケンズの使用した部屋のドアにはいかにも仰々しい掲示がしてあり、これを見て遺棄せずにボストニアン協会に持って行って保存するようにはからったという (46)。ドアはその後、倉庫に保管されていたのを2015年に90年ぶりに再発見され、オムニ・パーカーハウスに返却された後、現在ではホテルの地階に展示されており、一般に閲覧が可能だ。
クリスマスのその後と今
こうした動きの中で、1870年には大統領ユリシーズ・グラント(Ulysses S. Grant)がクリスマスを正式な休日に制定した (48)。全国的なサンタクロースのイメージは、Harper’s Weekly紙に1863年より挿絵を書いていたトーマス・ナスト(Thomas Nast)の影響が大きい。彼は、クレメント・ムーアの「サンタクロースがやってきた」を参考にサンタの挿絵を描いていった (49)。このイメージを確立させたのは、コカ・コーラだと言われている。1931年より、ハドン・サンドブルム(Haddon Sundblum)は現在の赤い衣装、黒いベルトのサンタの綺麗な挿絵を次々に描いていった (50)。
20世紀に入ると、ボストン市長ジョン・フィッツジェラルドにより、1912年より
ボストンコモンにクリスマスツリーが飾られるようになった (51)。20世紀中頃には、ファイリーン(Filene’s)、ギルクリスト(Gilchrist’s)、ジョーダン・マーシュ(Jordan March)などのデパートがこぞって豪華なクリスマス飾りをするようになった。特に1960-1970年代のジョーダン・マーシュの豪華なクリスマス村の展示は、ボストンにクリスマスプレゼント、サンタなどのイメージを確立させた (52)。
アメリカでは、11月末のサンクスギビングデーもやはり家族で集まり、ショッピングをする大きな休暇となっている。クリスマスに先立つこと1863年、リンカーンによって休日と制定された (55)。ここから、12月末のクリスマスまで、家族、親族、友人が集い、プレゼントやカードを交換し、買い物でクリスマスマーケットは賑わい、人々はリラックスした雰囲気の中、1年で最大の休暇を楽しむ。街はクリスマスの装いになり、誰もが楽しくリラックスした気持ちになる。クリスマスの原形は、確かに作られたものかもしれない。が、ディケンズのクリスマス・キャロルは、クリスマスは、喜び、楽しい、家族のイベントであること。チャリティの精神が重要で、人によくする機会であること。というイメージを広げ、クリスマスを人々に愛されるイベントに変えた。彼がボストンに来て150年後の今も、こうして
私たちはクリスマスを楽しく過ごすことができている。
付記
オムニパーカーハウスでは、ディケンズの幽霊が出る、と言われる。彼が泊まっていた3階に、誰もボタンを押してないのに、時折1番エレベーターが呼ばれて移動するという。また、ディケンズの練習した鏡の前で彼の姿を見たというものもいる (57)。