強さとは柔らかさ
「柔よく剛を制す」という言葉がありますが、本当にそう思います。
たとえば、対立する関係が生まれたとして、それを争って治めるのは本当の強さということはできません。
強さとは利害関係を鑑みた上で話し合って、調和の取れる形で治めることだと思います。
相手の話を受け入れて、こちらの思いを伝えて、最終的にはお互いが納得できる形で終える、それが強さの形といっていいでしょう。
争ったり戦ったりするのは、互いが傷つくだけであり、結果として何もいいことはありません。
むしろ、お互いに協力し合って、互いに高め合った方が進歩的です。
相手を封じ込めて勝つことに徳はないのです。
記憶が確かなら、老子もキリストも強いものこそ一番下に位置して下で支えるべきだといっていたと思います。
現在の社会は、強いとされる人が上にいる社会です。
しかし、本当に強度のある社会は、強い人ほど下で支える社会なのです。
土台のしっかりとした建物が揺らがないように、理想とする社会は強い人が下で支える社会です。
しかも、強さは単に基礎となる土台を強固にすればいいというのではなく、揺れも吸収できるような柔らかさも欠かせなかったりします。
つまり、揺れも吸収できるような柔軟さがあるのが強さなのです。
では、どうすれば柔らかさのある強さを身に付けられるようになるのか。
柔らかさのある強さを身に付けるためには、まずは自分を知ることから始めるといいのかもしれません。
自分を最大限に活かす方法を知ることができれば、それが強さになるでしょう。
「足るを知る」とは、自分を知ってそれを活かすことであり、富豪とは自分の活かし方を知っている人です。
日々の出来事は、自分を知るためにあるといっても過言ではありません。
日々の出来事は、自分を揺らすことが起こります。
しかし、そういった揺れを吸収しつつ揺らぐことのない自分をつくることができると、それが強さになります。
そして、そうった強さを持った人が、下に立って世の中を支えるのが理想の社会といっていいでしょう。
記憶が確かなら、禅の社会では偉い人ほど調理場に立って、まだ入門したての禅僧達の食事の準備をするそうです。
禅とは、生活の中にこそあるものであり、たとえば調理をして他者の役に立ちながらも禅定(心を静めて一つの対象に集中する)の状態になれるのが、強者の行為となります。
強い人ほど、自分を保ちながら他者の役に立てるようになるものです。
自分を活かす術を知り、今この瞬間に在ることができる人が柔らかさのある強さを持つ人です。
上善は水の如し。
水が下へ下へと流れていくように、強い人は下へ下へと降りていき、強い人が下から支えるのが、この世界のあるべき姿でしょう。
水は一滴ではすぐに乾いてしまいます。
しかし、大量の水が存在できるようになったとき、そこに吸収力のある強さを生み出します。
柔らかさを兼ね備えた強さを持つ。
こういった人が増えていけば、この世界は平安の世になることでしょう。
そのためにも、日々、今を生きる必要があるでしょう。
その手始めとして、いつも笑って丁寧に、そこから始めたいと思います。
柔らかい軸をぶらさない、そんなふうに生きていきたいと思います。