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内なる答えの見つけ方

我々は、生命としての本質を誰もが持っている。

この誰もが持っている生命としての本質のことを、生命としての根源といってもいいだろう。

とはいえ、これらの「生命としての本質」や「生命としての根源」を言葉としていい表すことは難しい。

しかし、言葉で表現できないことでも、その意味を感じることはできる。

我々の誰もが、生命としての言葉を超えた偉大な何かが存在していることを感じ取ることができている。

だからこそ、我々は種として絶滅することなく現在まで存続できているといえるのだ。

もちろん、このことは我々だけに限らず、我々以外のすべての生命も感じているはずだ。

いや正しくいうなら、我々人類よりも、我々以外の他の存在の方が「生命としての存在の意味」を常に感じて生きているといった方がいいだろう。

その理由は何かというと、それは我々人類には自我が存在するからである。

我々以外の他の存在には自我がない分、我々よりも彼らの方が「生命としての存在の意味」を感じることができている。

その一方で、我々人類には自我があるため、他の存在に比べると「生命としての本質」や「生命としての根源」の意味を感じ取ることを難しくさせているといっていいだろう。

我々が持っている自我は、それが強まれば強まるほど分離の方向に働くようになっている。

自我とは、我の中にありながら自分を強めるものであり、自分を強めていけけばいくほど存在としての本質から離れていってしまうことになり、その結果、分離の意識が生まれてしまうのだ。

現在の社会のあり方は、自我を強化するシステムとなっている。

不安や欠乏感を使ってそれを利益に変える今の経済システムによって、現代の我々は無意識のうちに自我を強めてしまう傾向にある。

つまり、現代の社会の仕組みが自我性を強化しているために、我々の誰もが感じ取れるはずの「生命としての存在の意味」を感じられないようにしているといえるのだ。

我々、人類はこれまでの進化の過程で、自我性を強めていきながら発展してきた。

我々が習う歴史のほとんどが争いについてであり、我々はそういった争いの中から生きるための術を見出し、その結果、文明を発達させることができたということもできる。

争いは、自我を強めることで生まれることである。

自我が強まれば強まるほど防御の姿勢を取ることになり、その結果、それぞれが壁を作るようになっていく。

こういった防御の姿勢がさらに膨らんでいくにつれて、やがて攻撃性が強まって争いが生まれるようになり、そういった争いによって我々の文明の進化・発展の原動力となってきたということもできる。

しかし、人が持つ自我性を強化することで文化を発展させてきた弊害として、我々は普段の生活の中ですら誰もが感じ取れるはずの生命としての存在の意味を感じられなくしてしまったといっていいだろう。

争いが存在しなかったといわれる縄文時代と、争いが収まることのない現代社会との違いは、生命としての存在の意味を感じ取ることができているか否かの違いである。

生命としての存在の意味を感じることができなくなるにつれて、世の中に争が増えていったということを、これまでの我々の歴史で知ることができる。

しかし、我々一人ひとりが、生命としての存在の意味を感じ取ることができていれば、そもそも争いが生まれることがないのだ。

なぜかといえば、生命は互いに協力し合いながら命を育んでいくものだからだ。

自我が強まれば強まるほど分離が起こり争いが生まれるのに対し、人の自我が薄まっていけばいくほど融和(うちとけて仲よくなること)が生まれ争うことがなくなっていく。

そういった意味では、これまでの人類の歴史は、生命の本質とは反対の方向に流れてきたといっていいだろう。

とはいえ、我々が自我を強化していきながらも文化・文明を発展することができてきたのは、生命としての存在の意味を全く感じ取れなくなったわけではないからだ。

もし人類が完全に自我に凌駕されていたなら、我々は種として存続することはなかったはずなのだ。

そういった意味では、我々は生命としての存在する意味を薄々感じながらも、自我を強化させながらこれまで存続してきたといってもいいだろう。

そうした中で、今世紀に入る頃から、今の社会のあり方に疑問を感じ心の在り方を見直す人が増えていき、現在では生命としての存在の意味を感じ取れる人が少しづつ増えている。

そういった影響もあり、今の世の中は分離の方向から融和の方向へと流れを変えようとする動きが強まっているといっていいだろう。

とはいえ、現在でも「生命としての存在の意味」を感じられる人と、あまり感じられない人の両者が存在している状態であるということもできるし、現状では、まだまだ前者よりも後者の方が多いと考えてもいいだろう。

もちろん、自我そのものが悪いわけではない。

ただ自我があまりにも強くなってしまうと、先述した通り、人々の動きが分離の方向に走っていってしまうことになる。

そういった中で、歴史上の覚者といわれる人や、現在、何かしらの形で生命としての本質の意味について語る人達は、経験を通じて自我が分離を起こす原因となっていることに気づき、その気づきによって自我が作り出す壁を取り除いていっている人といってもいいだろう。

そうやって自我が作り出す壁の存在に気づいて、その壁を取り払っていくことで、生命の本質はすべてが同じだということを知ることができるようになる。

この宇宙に存在する生命は、すべて異なるものである。

しかし、その本質はすべて同じである。

こういった存在そのものの本質の意味を知ることができたとき、我々は分離の意識から融和の意識へと方向を転換することができるようになる。

そういった意味では、我々人類は他の生命と異なり、これまで強化してきた自我性を取り除き、生命としての本質の意味を感じ取れるようになるというゲームをしているということもできる。

この生命としての本質の意味を感じ取ることができるようになり、自我が生み出す全ての障壁を取り払うことができるようになったとき、我々はこの自我外しというゲームを終え、いわゆる三次元世界での輪廻転生から卒業していくことになるだろう。

強化された自我性を薄め、生命としての本質の意味を感じ取れるようになると至福を味わえるようになる。

しかし、この物質的な自我性の強い三次元世界のままでは、この至福を味わうことは難しいといってもいいだろう。

とはいえ、この三次元世界の中にあってさえ、生命としての至福は絶え間なく流れている。

なぜなら、存在する次元が何次元であるかは関係なく、我々が生命である以上、そこに喜びの意識が存在しているからだ。

そして、この絶え間なく存在している至福を感じ取ることができるようになり、日々の一瞬一瞬を存在の根源と一つとなって生きるとき、我々は生命としての喜びを味わいながら生きていけるようになっていく。

では、どのようにすれば今この瞬間に絶え間なく存在している生命としての喜びを感じて生きていけるようになるか。

その方法はといういうと、シンプルに自分を満たしていくということをしていけばいい。

自分を満たしていけば、欠乏感を持つことがなくなっていくため、その結果、自我が生み出す壁を取り除くことができるようになり、生命としての本質に触れながら生きていけるようになっていく。

自我は足りないという思いを持てば持つほど強くなっていくものであり、欠乏感が強ければ強いほど、自我が生み出す壁が厚くなっていくものである。

だからこそ、まずは今、出来ることから自分を満たしていくことが大切になってくる。

たとえその行為が小さなことであったとしても、自分を満たし続けていけば、自我が生み出す欠乏感を取り除くことができるようになっていくし、自我が生み出す欠乏感がなくなっていけばいくほど、それに比例するように自我の壁を薄くすることができるようになる。

また自我の壁がなくなっていくにつれて人の心が開いていくため、人の心が生命の本質に触れられるようになるのは当然のことといっていいだろう。

この宇宙そのものが一つの生命体である。

異なる細胞の一つひとつがそれぞれの役割を果たしながら、人間の身体を構成するように、この宇宙では、様々な異なる生命がそれぞれの役割を果たしながらこの宇宙を存続させている。

この宇宙では、生命の一つひとつが自分の役割を理解し、その役割を全うすることで喜びの感情が生まれるようにできている。

生命とは個が全であり、全が個を意味する存在である。

全は個の喜びで成り立ち、全の喜びがそれぞれの個に影響を与えていく。

これが生命の仕組みといっていいだろう。

こういった全と個の喜びの交感が生命を発展させていく。

このため個が喜びで生きるとき、生命の喜びと一つになることができる。

そして、生命の喜びと一つになるとき、個は全を感じることができるようになり、個としての自分が満たされるようになる。

つまり、個としての存在を満たすことができるようになれば、そこに存在としての壁がなくなっていくため、全体と一つになるのは当然のことなのだ。

個としての存在を満たすことができれば、自分の役割を果たすことができるようになる。

自分の役割を知りその役割を全うするとき、個として喜びを感じることができるようになり、生命全体の存在としての喜びを感じられるようになる。

自分の役割を果たことで、生命全体に役立てる。

だからこそ、人は生まれてきた意味を探すようになっている。

生れてきた意味を知るということは、自分の役目を知ることである。

生れてきた意味は、自分を満たすことでしか知ることができない。

欠乏感を感じていれば、そこに喜びを見いだすことができない。

喜びを感じられないことは長く続けることができないため、それを役目にすることは出来ないが、自分を満たし喜びを感じることを続けていけば、それを自分の役目とすることができるようになる。

そうやって自分を満たしながら喜びを感じて生きていけば、やがて自分の役目を知ることができるようになり、他の存在と協力し合いながら全体のために役立つことができるようになる。

生命そのものの一部として働けるようになったとき、そこに自我の壁は存在しなくなる。

なぜかというと、自我の壁が存在すると他の存在と協力し合うことが難しくなるため、生命全体の役に立つことは出来ないからだ。

だからこそ、自我の壁を取り除き、生命としての本質の意味を感じることができれば、喜びとともに自らの役割を果たしていけるようになるだろう。

満たされた自分でいるとき、生命全体の躍進に貢献できる。

満たされた自分でいるとき、この自分が生命そのものだということを感じ取ることができるようになる。

そして、我々一人ひとりが存在の根源としての意味を感じ取ることができるようになれば、人類が生命全体の躍進に寄与しているということを知ることになるだろう。

自分を満たすことができたとき、そこに愛を見出すことができる。

この宇宙は愛で繋がっている。

愛とは、今この瞬間に絶え間なく流れているエネルギーであり、自分を満たし自分を愛することができるようになるとき、この宇宙に流れている愛のエネルギーと一つになることができる。

自分を満たし内なる愛に気づくとき、人は生命体としての宇宙と一つになることができる。

今この瞬間を愛の意識で満たせば、この宇宙と一つになれる。

今この瞬間を愛の意識を使って生きれば、自分の役目を果たせるようになり、この宇宙と一つになることができる。

我々の役目は、今この瞬間を愛の意識を使って生きることだ。

内なる答えは、いまここに存在している。

自分を愛で満たす時、内なる答えを見いだすことができるようになる。

内なる愛を見出すとき、分離から融和へと意識を変えることになるだろう。

生命としての存在の意味は、自分を愛で満たすことで感じることができるようになる。

今この瞬間に愛を込めれば、生命としての全体と一つになれる。

分離から融和の世界へ。

融和の意識は、まず自分を満たすところから始めることができる。

そうなるためにも、まずは今この瞬間の一つひとつの行為に愛を込めていけばいい。

今この瞬間に、愛を込めれば自分を満たすことができるようになる。

今この瞬間に、愛を込めて自分を満たせば生命としての役目を全うできる。

この宇宙に流れる愛のエネルギーと同調して生きるとき、我々は存在としての意味を体現できるようになっていく。

生命としての存在の意味を日々感じながら、愛の意識を使って生きる。

それが、これからの時代の生き方となるだろう。

分離から融和へ転換していく。

これをしたくて、我々は今ここに存在している。

生命としての存在の意味に触れると、人は愛で生きるようになるのだ。






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アキタロウ
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