「情熱の薔薇」に潜む精神の世界
ザ・ブルーハーツというバンドに「情熱の薔薇」という曲があります。
大分、昔の曲なのに現在でもCMなどで取り上げられることもあったりします。
この曲はとても真理をついていると聴くたびに思います。
だからこそ、この曲は心に響くのではないかと思います。
なので、今回はこの曲の歌詞を引用しながら、記事を書いていこうと思います。
まずは、「情熱の薔薇」の歌詞をご覧ください。
曲の冒頭で、こういったことが歌われています。
我々は、時間は過去から未来へ移動していると考えているものです。
では、なぜそういうふうに考えるかというと、そう考えると辻褄が合うからです。
しかし、これは人間が因果の流れで物事を考えているから生まれるものであり、実際には時が流れているわけではなく、本当は今しか存在していなかったりします。
過去とは、我々の記憶の中にあるものであり、未来とはこれから先を予測することで生まれるもので、どちらも頭の中に存在し、実際には目の前にあるわけではありません。
もし我々が過去の記憶を持つこともなく、未来に対する予測をすることもなければ、時の流れも永遠という概念を持つことはないでしょう。
我々の頭の中で繰り広げているイメージが時の流れを生み出し、それを共通認識として互いに共有しているからこそ、時は過去から未来へと流れていると考えることができ、永遠という概念も生み出していたります。
こういった時系列に対する思考は人間だけが持つものであり、人間という種が独自に持つ観念ということもできます。
また、この宇宙に存在する法則として、すべては常に変化しているといった真理があります。
どういうことかというと、この世の中には絶えず変化していて、全く同じ瞬間が存在しないということです。
地球は太陽の周りを常に回転し、太陽系は銀河系の周りを回転し、銀河系もまた宇宙の中心となる何かを軸にして回転しています。
つまり、この宇宙は絶えず動いていて変化し続けています。
こういったことを仏教では、「万物はいつも流転し、変化・消滅がたえないこと」という意味で「諸行無常」といっています。
我々は、同じような生活を繰り返し生きていたりしますが、全く同じ瞬間を過ごすということはできません。
新しい現象が生まれては、絶えず消滅し続けています。
こういった変化している瞬間を過ごしているのが、人間をはじめとする全宇宙の存在です。
だから、変化していくことが存在の真理なのです。
学生の頃に学校で教わった歴史が、今では違った形で教えられていたりして必死に覚えた年号も今では通用しない、そんなことがあったりします。
また、これまで常識だと思っていたことが、全く通用しなくなったりすることも起こっていったりしています。
現在、これまで揺るぐことのなかったものが、次々と崩壊していったりします。
そんな出来事がここ最近、増えています。
今、「非常識にも程がある」というドラマが人気ですが、昭和と令和では常識が知らず知らずのうちに変化していたりします。
しかも、これから100年後の未来になると、我々が今、常識と思っていることは全く通用しなくなっていることでしょう。
我々は、もう刀を持って街を歩くことはありません。
さらにもう少し規模を大きくしていて見てみるならば、我々人類の常識は、この宇宙の中では非常にローカルの常識でしかなく、この宇宙の常識から見ると、我々がしていることは全く非常識であるということもできます。
もし我々が今後、地球のローカルルールではなく、この宇宙の常識を用いて生きることになったなら、「これまで見聞きし、覚えてきたことがすべてでたらめだった」ということになってしまう可能性もあるのです。
仏教の般若心経には、「遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃(おんりいっさいてんどうむそう くきょうねはん)」という言葉が含まれています。
この言葉はどういう意味かというと、「逆さまに見ている物事ことから、一切離れることができれば真理にたどりつく」という意味です。
我々が常識と思っていることは、実は物事を逆さまに見ているものなのかもしれません。
いずれにせよ、我々は逆さまの認識から完全に離れることができたとき、真理にたどり着けるようになことでしょう。
我々は、喜怒哀楽に象徴されるように、様々な感情を持って過ごしています。
喜怒哀楽をざっくりとふたつに分けると「喜」と「楽」がポジティブ、「怒」と「哀」がネガティブになります。
このポジティブとネガティブ、二つの感情があるからこそ、我々は豊かな人生を歩めていたりするものです。
以前の記事にも書きましたが、ネガティブなことがあるからこそ、人は自分を成長させることができるようになるし、逆にポジティブなことだけだったら、生きることがつまらなくなってしまうことでしょう。
先ほども書きましたが、この宇宙は絶えず変化しています。
こういった変化を楽しんで生きることが、人生を楽しむ秘訣でもあります。
起こる現象が毎回同じだったら、そこに喜びや楽しみを見い出すことはできないし、怒りや悲しみを感じることもできないものです。
かといって、大きな不幸や大きな幸せは、我々の感情のバランスを乱すことになります。
そういった極端さは、人を破綻させてしまいかねません。
むしろ、バランスよく喜怒哀楽を感じて生きていけるようになると、人は中庸の意識に向っていけるようになっていき、中庸の意識に近づけば近づくほど、自分自身に寛ぐことができるようにっていきます。
そういった意味でも「なるべく小さな幸せ」と「なるべく小さな不幸せ」の双方をたくさん集めて生きていくことが、自分を中庸に向かわせるのに丁度いいのではないかと思います。
いずれにせよ、人はバランスを取ろうとする生き物であり、感情の波をできるだけ小さくしていくことを目的として生きているといってもいいかもしれません。
我々が日々体験していることは波であり、そういった波のある中で、いかにして心を穏やかに生きていけるようになるのか、という試みをしていると考えることができます。
涙とは、真理の比喩です。
心のずっと奥の方に答えがあり、心のずっと奥の方から涙という真理がやって来るものです。
我々は、何も知らずに生を受けているように思っていたりします。
しかし、誰もがこの世界の真理を心のずっと奥の方に持って生まれてきています。
そのことに気づくために、我々はこの地球で人間として、ある意味でローカルな世界で波立つような体験をしながら生きているといってもいいでしょう。
そして、我々の心の中に潜んでいる真理に気づくことに、日々情熱を注ぎ薔薇の花を咲かせようとしているのです。
人は真理に触れたとき涙を流します。
「情熱の薔薇」の歌の最後に、「水」という言葉が出てきます。
情熱という「火」を絶やさないようにするためには、「水」が欠かせません。
我々は「水」によって生かされています。
我々は「水」を絶やしてしまうと命を落としてしまいます。
我々は「水」によって「火」というエネルギーを燃やすことができるのです。
「火」と「水」を上手に内側に保つとき、人は「火水」を見出すことができるようにるでしょう。