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第45回:「喜び」とは心と身体、両方で得ること

今回は、「喜び」とは心と身体両方で得ること、ということを書いていきます。

今回の内容を簡単に説明すると、「喜び」とは頭で得られるものではなく、心と身体でしか得られないということです。また、心と身体で得ることができた「喜び」に従って生きていると、いろんなことが上手くいってしまったりします。

心と身体はいつだって一緒に活動しています。たとえば、先日のサッカーのW杯の日本のゴールシーンでは、私はひとりで試合を観ていたのにもかかわらず、大声を上げてガッツポーズをしていました。

こういったことは、心と身体が一体化していたから起こることであり、頭の中での考えで起こることではありません。また、映画などを見ていて、感動のあまり涙を流してしまうのも、心と身体が一つになった証拠といってもいいでしょう。

こういった、心と身体が一つになって生まれる行為こそが、人間の本質的な行為であり、私たちが存在している本質的な理由といっていいでしょう。

人が「恋」に落ちるのは、心と身体が一つになったから

人は計算して恋に落ちることはできません。人が恋に落ちるのは常に、偶然的な出来事であり、心と身体が一つになって生まれた結果といってもいいでしょう。

また、人が恋に落ちたときは、ハートがドキドキして頭の中が真っ白になってしまったりします。このことは、恋に落ちるということは思考ではなく心と身体でしているということの証明になるでしょう。

もちろん、第一印象で何も思わなかった人同士でも、一緒に行動することで恋に発展していくこともあります。一緒に行動するということは、身体と心を使う行為であるため、ちょっと会話では分からないような情報を心と身体で得ることができたりするからです。

さらに、一緒に行動することで、お互いに気が合うなと感じることができたなら、そこに「喜び」があったことになるため、恋に発展していく可能性も高まるでしょう。

この「気が合う」ということは、なかなか言語化することが難しかったりします。

たとえば、付き合っている人の仕事とか性格といったことは、言語化することは簡単だったりしますが、この「気が合う」ということを具体的に言語化するのは難しかったりするものです。

とはいえ、実際に付か合うかどうかの判断をするときには、相手の職業とか性格よりも、この「気が合う」という要素の方が大きな判断材料になったりします。というのも、この「気が合う」という感覚は心と身体で得た情報だったりするからです。

そして、恋に限らず、どんなことでも大きな決断をする場合は、言語化することが難しいことを選択した方が、いい結果が得られたりするものだったりします。

直観は心と身体で得た情報

恋をした理由を人に説明するのが難しいのは、心と身体という感覚的な部分で恋をしたからであり、恋をした相手に言語化できない何かに惹かれたからです。

こういった言語化できない感覚的なものとしてあるのが「直観」であり、この直観はまさに心と身体で得るものだったりします。

ではこの「直観」はどのようにして得られるのかというと、身体を動かしているときだったり、リラックスしていて思考を働かせていなかったりするときだったりします。

なぜかというと、「直観」とは思考で得られるものではないため、思考をしていないときほど得られる感覚だからです。つまり、思考を働かせていないときとは、心と身体を働かせているときであり「直観」を得やすくなったりするのです。

宇宙のリズムが体に流れると
楽しくてしかたがなくなる
新しい物事や
新しい自分
新しい出会いが
自ずと生まれてくる

本当の自分が目を覚ますからだ

「タオの法則」

これは、千賀一生さんの「タオの法則」という本からの引用ですが、この文章はまさに「直観」が生まれる瞬間をいい表しているといっていいでしょう。

人が、こういった直観を得て、それに従って生きることができたたなら、それが人生の転機となるといっていいでしょう。こうった感覚を得られたときが、いわゆる「気づき」の感覚であり、人生に対する価値観を変える力となったりします。

そして、こういった天啓というべき直観は、思考を手放したときに得られるものです。

では、こういった天啓を得られるようにするには、具体的にはどうすればいいのでしょうか。

自らの内なる声に従い、「忠」を守って生きるにまさるものはない。
忠とは、自分自身の心の真ん中いる、ということだ。

「老子 あるがままに生きる」

これは、「老子 あるがままに生きる」という「老子道徳経」の超訳本からの引用ですが、この文章にあるように、自分自身の心の真ん中にいることができると人は直観を得やすくなります。

自分自身の心の真ん中とは、まさに「忠」の文字にあるように身体の「中心」である身体のハートの部分であり、決して頭の中ではありません。むしろ、頭の中で思考を繰り返していては、直観は得られなかったりします。

「喜び」に繋がる直観で生きていく

心と身体で得ることができた直観は、先ほどの千賀さんの引用にあるように、「楽しくてしかたがなくなり、本当の自分自身の目覚めをうながす」ことになります。

そういった意味でも、何かを決断する場合は、「嬉しい」「楽しい」「大好き」と感じることを積極的に選んでいった方がよい結果を生み出すことでしょう。

また「嬉しい」「楽しい」「大好き」を選ぶことで、「新しい物事や、新しい自分、新しい出会い」が生まれるのであれば、それを選ばない手はありません。しかも、そういった新しい出来事が「自ずと生まれてくる」のであればなおさらのことなのです。

「自ずと」という言葉は「自然」にということであるため、「嬉しい」「楽しい」「大好き」という選択をすることは、人間にとって自然の理であり、この自然の理で生きることができたなら、何も努力する必要もなく道が開いていくものだったりします。

現状を打破するには身体を動かし「喜び」を感じること

もし、現状が上手くいっていったいなかったり、何かしらの壁にぶつかっていると感じるようであれば、身体を動かすことをお勧めします。

というのも、現状が上手くっていない場合の多くは、思考で物事を解決しようとしているからだったりするからです。思考で物事を解決しようとすると、そこに楽しさを感じることが難しいため、得てしていい結果が生まれなかったりします。

むしろ、そういった場合こそ、身体を動かすことで「喜び」のセンサーを開いていった方がいいでしょう。人が「喜び」のセンサーを開くことができるようになると、心の真ん中、つまり「忠」にいることができるようになります。人が「忠」にいるということは心と身体を使って判断できるようになるため、天啓というべき「直観」を自然と得られるようになっていきます。

また、心の真ん中にいるということは、リラックスできている状態になるということでもあるため、なおさら「喜び」を伴うような「直観」を得られるよいうになっていくことでしょう。

そうやって、リラックスした状態で「あるがまま」の自分になったとき、人は、自分という存在の核心に触れることができるようになります。

この存在の核心に触れることができると、「楽しくてしかたがなくなり、本当の自分を目覚めさせることができる」ようになることでしょう。

私たちは、人生を楽しむためにこの世に生まれてきています。そして、生きることが楽しいと感じることができたとき、人生の答えを得ることができるようになるのです。

先ほどの千賀さんの言葉を借りれば、

宇宙のリズムが体に流れると
楽しくてしかたがなくなる

それが答えなのです。





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アキタロウ
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