第44回:「喜び」で世界を変える
今回は、「喜び」で世界を変えるということを書いていきます。
今回の内容を簡単に説明すると、「喜び」の意識を使って表現することができれば、それだけで「私」という「個」の世界が変わっていくということです。
そして、「私」という「個」を変えることができれば、この世界そのものを変えていくことができるようになっていきます。
このことは、以前も紹介した「波動には優位と劣位があり、優位の波動は劣位の波動をコントロールする」という「波動の原理」に基づいた原理を使って行けば可能になることです。
たとえば、普段から「喜び」の意識を使っていると、「怒り」というような意識をコントロールできるようにいなるため、私の世界は「喜び」で満たされるようになっていきます。また、私の世界が「喜び」で満たされれば、それが周りの人にも伝播していくようになり、周りの人にもいい影響を与えることになります。
しかも、「喜び」の意識は「愛」の意識より優位にあることから、「喜び」を表現することができると、他者に対して「愛」を示すこともできるようになるため、「喜び」で生きているだけでこの世界が「平和」になっていくものだったりします。
「喜び」は「愛」の意識より優位にある
一般的には、「愛」の意識の方が「喜び」の意識より上にあると考えがちですが、「喜び」の意識が「愛」の意識より上位にあるということを、「パワーか、フォースか」という本の「意識のマップ」で見ることができます。
この表の「レベル」の欄の上から3番目の意識が「喜び」であり、その下にある意識が「愛」になります。
この「意識のマップ」が、どうやって作られたかというと、キネシオロジーという「筋反射テスト」によって作られたものです。
「筋反射テスト」とは、たとえば二つの選択肢があった場合に、その判断を筋肉の反応によって決めるというものであるため、人間の思考を使わずに、人間が生来持っている身体的・本能的な反応を判断材料にしながら決断するというものだったりします。
こういったことから、キネシオロジーでの得られた結果は、人間の思考性によるバイアスのない判断と捉えることができます。
たとえば、疲れているのにもかかわらずに働かなければならないと思ってしまうのは、人間の思考によるバイアスです。しかし、疲れを疲れと認知しそれに従って休息をとるということは、身体的な判断であり合理的な判断といってもいいでしょう。
このように、何かの判断を下す場合は、身体の声に従った方が理にかなっていたりするのです。
こちらの引用は、千賀一生さんの「タオの法則」からのものですが、ここにあるように、もし「体は本来、爽快なものであり、すべてを知っている」のであれば、何かを判断する場合には、身体に聞いてみた方が合理的な判断が下せたりします。
こういった「筋反射テスト」を多くの被験者に行った結果が「意識のマップ」であり、その結果の一つとして「愛」よりも「喜び」の意識が優位であるという結果が導き出されています。
キリストが「愛」によって伝えたかったこと
キリストといえば「愛」を思い浮かべますが、私が思うにキリストは、「波動には優位と劣位があり、優位の波動は劣位の波動をコントロールする」という「波動の原理」があるということを「愛」を使って伝えたかったのではないかと思います。
たとえばキリストの言葉で理解することが難しいとされる、「右の頬を叩かれたら左の頬を差し出せ」ということは、この「波動の原理」を使うことで説明できたりします。
人は立ち向かってくる人には、立ち向かうことで対抗しますが、仮に立ち向かってくる人がいたとしても、立ち向かう姿勢をこちらが見せることがなければ、相手は戦うことすらできなくなってしまいます。
たとえば競技スポーツは、双方が競い合うという合意のもとにするスポーツですが、たとえば二人の人が同じ土俵に立っていたとしても、片方に競おうとする意思がなければ競技にすらならなかったりします。つまり、意識が違う人同士が対峙しても気持ちが噛み合わないため、競うことすらできなくなってしまうのです。
このことは、大人が幼い子供と何かを競い合っても意味がないように、意識が違う人同士が向かい合っても、そこには何も生まれないということでもあります。
この幼い子供と大人という比喩を使って例えるなら、「愛」が大人の意識であり、「攻撃」というようなネガティブな意識は、幼い意識と捉えることができるでしょう。
こういったことから「愛」の意識が優位の意識であり、それより劣位となる波動をコントロールできるという根拠となります。
もちろん、競技スポーツでも「優位と劣位の波動の原理」が働くため、勝負は必ず精神性の高い方が勝つことになります。
キリストは、「愛」は人間の意識の中でも高次のものであるため、普段から「愛」の意識で過ごしていれば、「優位と劣位の波動の原理」が働くため、何も心配することはない、といったことを伝えたかったのだと思います。
もちろん「右の頬を叩かれたら左の頬を差し出せ」という言葉を鵜吞みにするのではなく、右の頬を叩かれても左の頬を差し出せるくらいの「愛」の意識を持ちなさいという意味が込められているということです。
インドのガンジーが当時の大帝国だったイギリスに勝てたのもこういった「波動の原理」が働いたからだと考えることができます。一人の人間が大国を動かしてしまうほど「愛」の意識は優位性が強かったりします。
また、最近の身近な例で言うと、漫才師のノンスタイルの井上さんが、彼のツイッターに書かれた中傷コメントにポジティブな言葉で返すことが話題になったことがありますが、そこにも「波動の原理」が働いていたといえます。
井上さんが、ネガティブな言葉をポジティブで返すことで、彼の人気が上がったのは「波動の原理」の現れといっていいでしょう。
「喜び」が「愛」より優位の意識である理由
次に、なぜ「愛」より「喜び」が優位の意識なのかを考えていきます。
これも私の私見ですが、伝えやすさという意味では、「愛」よりも「喜び」の方が優位にあるように思います。というのも「愛」の気持ちを伝えることが難しい反面、「喜び」の気持ちを伝える方が簡単だからです。
また、「愛」の表現は限定的であるのに対し、「喜び」の表現は万人に向けてできるものです。「愛」の表現は愛する人や家族、国など部分的な印象を持ちますが「喜び」はそういった垣根を超えたイメージがあります。
さらに、この「喜び」の気持ちを使えば、「愛情表現」もできるようになるため、「喜び」の意識の方「愛」の意識より汎用性が高かく万国共通であり、言葉を使わなくてもできる表現だったりします。
たとえば、「愛」の気持ちは主に言葉で伝えたりするものですが、「喜び」は身体表現でも伝えられたりします。こういったことから「喜び」の意識は「愛」の意識より優位にあるといえると考えられます。
さらに、こういった「喜び」の意識は共感性が高いため何かを理解し合うためには「喜び」の意識を使うと、仲間意識が生まれてくるものだったりします。
人類は共感することで進化してきた
ユバル・ハラリさんの「サピエンス全史」には、人類は物語を共有してきたことで進化してきたと書かれています。
たとえば、ある地域で生まれた神話をその地域の人同士が共有することで、同じ部族、同じ国民と考えるようになっていったとハラリさんは述べています。このことは、同じ神話を共有することで人と人とを結んでいるということになります。
同じ神話を共有するということは、同じ意識を持っていると言い換えることができるため、同じ神話を持つことで、お互いの共感力を高められるようになり、その結果、仲間意識を強めることができるということになります。
おそらく、こういった原理があったからこそ、宗教がその地域の共通言語として根付いていていったわけであり、自分の信仰する宗教を広げていくことで、自分の属する文化圏を広げていくことができるようになったといっていいでしょう。もちろん、その一方で、その思想性の違いから争いが生まれ、争いに勝利した側の宗教がこの世界に広まっていったといっていいでしょう。
そういった意味では、宗教はその内容よりも、同族性の強化という面で使われていったといってもいいかもしれません。
その後、宗教によって同族性を強化していくことに限界が生まれ、今では、科学主義や資本主義が、人類の共通の物語となって共有されるようになっています。
現在の私たちは科学主義や資本主義を同じ物語として共有し、地球規模でのグローバル化が達成し、人類は科学主義と資本主義を共通言語にすることで、人類というひとつの部族が完成されたといってもいいでしょう。
とはいえ、科学主義や資本主義が人類の共通言語となってしまうことに疑問が生じたりします。なぜかというと、いまだに戦争が起こっているし、人類のグローバル化はできたものの、意識のレベルは「愛」や「喜び」の意識には至っていないからです。
また、科学主義や資本主義は、左脳的であり計算的です。しかし、「愛」や「喜び」の意識は右脳的であり、万国共通の汎用性の高い意識だったりします。
したがって、私たちが、今後、科学主義や資本主義に変わって「愛」や「喜び」といった意識を人類の共通言語として共有できるようにならない限り、種として大人になることができないままでいることになります。
物を取り合うのは幼い子供がすることです。成熟された大人は、物を取り合うのではなく分け合って感謝の気持ちを伝えます。物を分け合うという行為は「愛」の行為であり、感謝を伝えるという行為は「喜び」の行為です。
こういったことからも分かるように、私たちが「愛」や「喜び」の意識を使って生きるようにならない限り、この世界は幼いままであり、成長することができないということになります。
「喜び」を選んで生きる
もし私たちがこれから平和の世界を創って生きるのであれば、個人個人が「愛」や「喜び」の意識を持って生きることです。「嫌」と感じることはやめて、「愛」や「喜び」と感じることを積極的に選んで行っていくことです。
きっと、一人ひとりが意識を変えていくことでしか、大人の世界を創り上げていくことは不可能なのだと思います。というのも、国や国家は一人ひとりの集合体でできているからであり、一人ひとりが変わらない限り、国や国家も変わらないからです。
ひとり一人の意識を変えることは、時間が掛かることであるかもしれません。しかし、ガンジーが一人で大英帝国の考えを変えさせたように、「愛」や「喜び」の意識を使って行けば、思いもよらないような奇跡が生まれたりするものです。
また、ガンジーが起こしたような奇跡は「波動には優位と劣位があり、優位の波動は劣位の波動をコントロールする」という「波動の原理」によって生まれるものであり、私たち一人ひとりが「愛」や「喜び」の意識を持てるようになれば、それだけで、その周りの人達の意識をも変えられるようになるでしょう。
こういった「波動の原理」を知っていたからこそ、キリストは「愛」の意識の大切さを多くの人に伝えたかったのだと思うし、「祝福」という「喜び」の意識を広めたかったのだと思います。
さらに、「愛」や「喜び」は、科学も資本も関係なく、いつでもどこでも表現できるものです。「喜び」はコップ一杯の水でも得られるものだし、美味しい食事を摂るだけでも得られるものです。「愛」は感謝の気持ちを伝えるだけで表現できるものでもあり、ただ一緒にいるということだけでも表現できるものです。
このようにして、少しでも多くの人が「愛」や「喜び」で生き、それを他者に伝播させていくだけで、この世界が平和になっていくことでしょう。特に、その表現の方法として誰でも使いやすい「喜び」の意識を使っていくことで、世界を変えることができるようになっていくと思います。
今後、私たちが意識して「愛」や「喜び」の意識を意識して使っていくことができるようになれば、私たちは、この世界を大人の世界に変えていくことができるようになっていくことでしょう。
*今回、参考にさせて貰った書籍です。