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情熱がないと出来ないことがある

たとえば、お金になるとか、有名になるとか、そういったこととは関係なしに、「どうしてもこれをしたい」というようなことを見つけることができると、それがそのまま情熱になるのだと思う。

南方熊楠(みなかたくまぐす)という人がいる。

彼はまさに情熱で生きた人物だ。

生物学者、民俗学者。明治19(1886)年東京大学予備門中退後、アメリカやイギリスに渡り、動植物学や考古学等をほぼ独学で研究した。33年に帰国後、和歌山県田辺町に移り、粘菌類(変形菌類)等の採集・研究を進める一方、柳田國男と交流し、初期の日本民俗学に影響を与える。

「近代日本時の肖像」より

南方は、大学予備校を中退したあと、海外に渡って動植物学や考古学をほぼ独学で研究し、帰国後は粘菌の研究をする。

東京大学予備門とは、東京大学に入学する者への準備教育機関であり、いくつかの科目で赤点を取ったため東大に進級できなかった南方は、海を渡る。

海外に留学できるだけの財力のある家に生まれたとはいえ、母国語ではないアメリカやイギリスで、ほぼ独学で動植物学や考古学などを学んで、日本に帰国したら粘菌類の研究をする。

彼が学び研究したことは、お金になるとは言い難いし、これらを学んだからとって名声を上げられるわけでもない。

しかし、興味を持ったことを研究したい、そういった思いがあるからこそ、お金とか名声とか、そういったことは関係なしに、彼は自分の中から生まれ出た情熱だけで生きていたといっていいだろう。

逆にいうと、自分が興味を持ったことを追求したいという強い思いがないと、海外で独学で動植物学や考古学を学ぶことはできないのかもしれない。

先日、放送されたNHKの「日曜日美術館」という番組で紹介されていた角間泰憲さんは、普段は家業のクリーニング店を営み、夜の時間などに木工芸をしていて、今年の第71回日本伝統工芸展で文部科学大臣賞を受賞している(受賞作はこちら神代杉造箱)。

詳しいことはわからないが作家としての技術力がありながらも、日中にクリーニングの仕事をし、夜の時間に作品作りをするという生活を送る背景には「どうしてもこれがしたい」といった強い思いがあるのだと思う。

「どうしてもこれがしたい」、そんな思いを持っていても、それを実行に移すことは難しかったりする。

仮にそういった思いを持っていたとしても、様々な理由で、それ諦めてしまうこともあるだろう。

しかし、そういった中でも、ネガティブな理由を超えてそれを実現できるのは、内側から湧き上がる強い思いがあるからだと思う。

「君の名は」「天気の子」「雀の戸締り」の監督である新海誠さんは、無名だったころの会社員時代に、夜中に自主アニメーション動画を作成していたという。

ゲームソフトの制作会社で働き、夜中に帰宅したあと午前3時頃までアニメーション制作を行い、6時に起床し出社するというような生活を送っていたそうだ。

「どうしてもこれをしたい」という思いが、たとえ睡眠時間3時間の生活であったとしても、その思いによって人を動かしてしまうものでもある。

当然、新海さんも映画監督として独立し生計を立てたいという思いを持っていたに違いない。

しかし、そういった野心だけではいい作品を生み出すことはできない。

いい作品は、数えきれないほどの失敗と成功を繰り返してはじめて生まれるものであり、そういった試行錯誤は、野心ではなく「どうしてもこれをしたい」という純粋な思いがなければできなかったりする。

「どうしてもこれをしたい」という情熱を持ったなら、ここで挙げた3人のように、一見すると苦労と思われることでも、それは彼らにとっては苦労にはならない。

むしろ、「どうしてもこれがしたい」といった思いがあれば、それがどんな環境であったとしても、それをやらざるを得ないのだ。

やり方は人それぞれでいい。

自分の思いに従って、楽しんで出来ればいいのだ。

ただ、彼らのように「どうしてもこれがしたい」という純粋な思いを持って生きていけるようになると、「誰でもない私」を生きられるようになるのだと思う。

人の個性は、「これをしていると楽しくて仕方がない」ということをすることで生まれるものだし、そういった情熱を傾けられることと出会うことができれば、唯一無二の自分で生きていけるようになるだろう。

自分らしさは、自分の好奇心の中にある。

自分が興味を持ったこと、関心を示したことの中に、「私らしさ」が存在する。

そして、自分という存在を忘却させ、その対象とひとつとなって無我の境地に至る幸福の中に自分らしさが存在するといっていいだろう。

何かに夢中になるとき、自我が消える。

情熱的に何かをするとき、その対象に没頭し自分を忘れることになる。

情熱は、自分を忘却できる物事に向かいあうとき生み出される。

自分の視点で考えるのではなく、夢中になっているその対象の側に立って
自分を消失させることで幸福感が生まれ、その幸福感を繰り返し味わいたいという思いが情熱になるといっていいだろう。

費用対効果を抜きにして、心の底からそれをしたいという思いが情熱を生み出すものだ。

費用対効果を考えてすることは、情熱にはなり得ない。

ただそれをしていると楽しくて仕方がない、そんな思いが情熱になることだろう。

「どうしてもこれがしたい」と思えることは、理由があってないようなものだ。

文章を書いていて楽しいと感じることに、明確な根拠はない。

楽しいと感じることは、人それぞれであり明確な根拠はない。

誰もが同じような身体機能を持っているのにも関わらず、一人ひとり好みが異なるものであり、その好みが異なる理由を明確に説明することはできない。

「楽しい」と感じる思いの発生源を確定するのは、ほぼ不可能といっていいだろう。

とはいえ、そういった楽しいという思いが人を動かしてしまうのは万人に共通していることであり、そういった思いが強ければ強いほど、人を情熱的にさせる。

楽しいという思いが強くなっていくと、現在置かれている環境に左右されることなく、「どうしてもそれがしたい」という思いを生んでいくようになる。

そして、その対象がどんなことであっても、「どうしてもそれがしたい」ということを見つけることができれば、自分らしく生きることができるようになり、人生そのものを楽しめるようになっていくことだろう。

何かに夢中になって生きること、それが一人ひとりの人生を豊かなものにする。

ものづくりだけに限らない。

誰かに恋をするのでもいいし、推し活するのでもいい。

どんなことでも夢中になって情熱を注いで生きられるようになれば、人生が輝き出す。

情熱を持って何かをするとき、喜びのエネルギーを発することができるし、その喜びのエネルギーが、自分の思いを具現化させる力となっていく。

純粋な思いを持って喜びのエネルギーを発して生きれば、それが形となって、他者に伝わっていく。

南方熊楠のように独学であっても、角間泰憲さんのように家業をしながらであっても、新海誠監督のように少ない睡眠時間しか取れなかったとしても、情熱という喜びのエネルギーを使っていけば、自分の思いを形にすることができるようになるだろう。

情熱は、ささやかな楽しいが出発源となる。

だからこそ、自分の中から生み出される「楽しい」という思いを大切にしていく。

どんなに些細なことでも、「楽しい」という思いを見逃さずに、それを広げていけば、それがやがて情熱へと変化していくことだろう。

楽しいという思いを否定せずに、それを膨らませていけば人生を愉快なものにすることができる。

きっかけは些細なこと。

それが情熱に変化していく。

心の琴線に触れた何かをきっかけとして、それが情熱へと変化する。

情熱があれば、どんなことでも実現できる。

情熱というエネルギーが、人を動かし思いを具現化させることだろう。

情熱を持って生きるとき、生きることの迷いを消すことができる。

時代は変化する。

これからは、情熱を持った人たちが楽しんでいける時代になる。




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アキタロウ
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