自由で平和な世界を思い描く
人は、どうしてもネガティブなことが起こると、そのことばかりを考えてしまうもの。
しかし、そういったことばかり考えていると、どうしてもテンションが下がってしまうし、ネガティブなことに焦点を合わせている時間が長くなればなるほど、それを潜在意識に刷り込んでいってしまうことになる。
しかも、我々の潜在意識は深い部分で集合意識で繋がっているため、ネガティブな思いを蓄積させていけばいくほど、我々の集合意識もネガティブなものになっていってしまい、人類の波動が重く荒くなってしったりする。
もちろん、ネガティブな感情を抱くのは仕方のないことだから、それを敢えて止める必要はないけれど、そのままで放置していると、どうしてもこの世界のあり方を変えていけなくなってしまう。
そこで「自由で平和な世界を思い描く」ということを習慣にしてみるのもいいのではないかと思った。
世界のあり方を変えるには、まずは我々の意識を意識的に変えていくことであり、一人ひとりが世界の平和な姿を意識してイメージすることから始めるといいのかもしれない。
今回、なぜ、そういったことを思いついて記事にしたかというと、最近、買い物などをしていると、ついイラっとしてしまう店員さんと遭遇するケースが多くあり、その結果、僕自身が無意識的にネガティブな波動を出してしまっているということに気づいたから。
もちろん、親身になって内応してくれる店員さんもいて気持ち良く買い物をすることができているけれど、どうしても対応の悪い店員さんの方に気持ちが引っ張らられてしまうことの方が多く、その後味の悪さをずっと引きずってしまうことが多い。
このことは、これまでの無意識が生み出した潜在意識の刷り込みがつくり出した生み出した現象であり、僕の意識を変化させていかない限り似たような現象が起こってくることだろう。
先述したように、ネガティブなことに気をとられている時間が長いということは、自分にとってもいいことでもないし、巡り巡って人類の集合意識に影響を与えることにもなってしまう。
おそらく、僕以外の多くの人もポジティブな出来事よりも、ちょっとしたネガティブな出来事に焦点を合わせてしまうことの方が多いのではないかと思う。
集合意識は、当然、多くの人でつくり出しているものであり、そういったちょっとしたネガティブな思いでも、日々、我々の集合意識の中に蓄積していると考えられる。
現在の人類の集合意識は、ポジティブな思いよりもネガティブな思いの方が優位に立っていると思うし、このままネガティブな波動を蓄積させていくと、ますます取り返しのつかない状況になってしまうのかもしれない。
しかし、今の集合意識のネガティブ性とポジティブ性を逆転させられるようになれば、きっと世界のあり方が大きく変化していくのではないかと思う。
我々は、無意識のうちにネガティブな思いを抱いてしまうものであり、そういった無意識さを放置したままだと、今の社会が持っているネガティブ性を解消することはできないだろう。
我々が無意識に放っているネガティブな思いは、日常の身近なところから国家間の戦争といった規模の大きなことまで影響していて、そういったネガティブな思いの集合意識への蓄積は留まることはないように思えてならない。
こういった無意識に生み出されてしまうネガティブ性を解消するには、意識を意識的に使っていくしか対抗できないのではないかと思う。
そこで意識を意識的に使う方法として「自由で平和な世界を思い描く」ということを生活の中の習慣のひとつにしていくと、我々が無意識的に作り出している集合意識を意識的に変えていけるのではないかと思ったのだ。
この「自由で平和な世界を思い描く」ということを、別な言葉にするならば「祈り」といってもいいだろう。
ただ「祈り」という言葉には、どうしても「憂い」の要素が含まれていて、その分、重みが存在しているので、もう少しポップに楽しみながら「自由で平和な世界を思い描く」くらいが丁度いいように思う。
いずれにせよ、多くの人が意識的に「自由で平和な世界を思い描く」時間を持てるようになれば、現在の人類の集合意識を軽くしていけるようになることだろう。
そしてもちろん、「自由で平和な世界を思い描く」時間を持って過ごせるようになると、個人的な変化も起こってくる。
個人の潜在意識は、それまでの無意識的に蓄積してきた感情によって生み出されているものであり、そういった無意識の蓄積を減らしていき、意識的にポジティブな意識を蓄積していけば、変化が起こるのは当然のことといっていいだろう。
目の前の現象は、自分の意識が創造しているものであるから、この世界に対する自分の認識を、意識して少しづつでも変えていくことができれば、これから起こる現象を変えていくこともできるようになる。
そこで一日の中で5分でも10分でもいいので、自由で平和な世界の姿を楽しんで夢想してもいいだろう。
想像することは、誰でも自由にできるものであり、遠慮することなく自由で平和な世界を想像し楽しむことができれば、自分の中のポジティブ性を喚起することがきるようになるだろう。
自由の反対語は、「制限」であるから、文字通り制限を取り払って自由な世界を想像して心を歓喜させてもいい。
お金の制限のない世界を想像してもいいし、時間の制限のない世界を想像してもいてもいい。
たくさんの人が笑顔で過ごしている世界を想像してもいい。
我々が、日々感じているネガティブ性の多くは「制限」によって生み出されている。
人は制限によって、笑顔を失っていると考えることもできる。
我々にはたくさんの制限があるから、それが息苦しさとなってネガティブ性を生んでいるといっていいだろう。
そして、そういった制限から生まれるネガティブ性の蓄積によって、身近なところでいえばギスギスするような人間関係が生まれてしまうわけだし、国家間での戦争でさえそういった制限が原因で生まれているということもできる。
我々の身の回りには、たくさんの制限が存在しているけれど、想像することにあえて制限を加える必要はない。
むしろ、制限のない世界を想像することで見えてくることがたくさん出てくることもあるだろう。
そういった意味でも、制限のまったくない自由で平和な世界を思い描いてもいい。
意図して制限の存在しない世界を思い描いていくと、自分は何に制限を感じているかを知ることができるようになるし、その制限をどうしたら外していけるようになるか思考するようにもなる。
制限のまったくない世界では自分は何をするのか、そんなことを考えてもいいかもしれない。
もしかすると、制限のまったくない世界でしたいと感じることが、自分にとっての本当の望みなのかもしれない。
いずれにせよ、いろんなことを意識的にイメージ(夢想)していくと気づけることもたくさん存在する。
自分の中の制限を少しでも外していけるようになると、より自由に生きていけるようになっていく。
我々は、人生を通じて制限外しのゲームをしているのかもしれない。
社会が生み出した制限や、知らぬ間に自分で生み出している制限など、我々は、たくさんの制限の中で生きている。
しかし、そういった制限を外して生きていけるようになれば、自由を感じて生きていけるようになることだろう。
そうなるためにも、制限のない平和で自由な世界を思い描いて意識的に自分の意識を変えていく時間を生み出していけば、自分の中のポジティブ性を増していけるようになるし、人類の集合意識の変化を与えることもできるだろう。
もちろん、想像したことが現実になるとは限らない。
ただ、我々には、想像する自由が与えられている。
であるならば、意識的に制限の存在しない自由で平和な世界を思い描くのも自由なのだ。
想像の自由を上手に使っていけば、自分の世界もこの世界の集合意識にも好影響を与えることができるようになるだろう。
大切なのは、自由に想像することで、自分自身の波動とこの世界の波動を少しでも軽くしていくこと。
なので、結果にこだわらず遊び感覚で自由で平和な世界を想像してみてもいいだろう。
我々の自由な想像で、新しい世界を創造する。
それが集合意識の力となる。
我々が平和な世界をイメージすれば、それがいつか必ず形となって現れるときが来ることだろう。