74)答えは思考の外に
今、普段の生活の中で楽しいと思うことは、noteで記事を書いているときと筆で字を書いているとき。
あとビールを飲んでいるとき。
筆で字を書き始めてまだ一週間程度だが不思議と楽しい。
夜、明日は何の字を書くか考えながら眠りにつく。
字と一緒に書く文章は、朝ぼんやりしていると浮かんでくる。
朝、一字書いて記事にする。
一日2記事。
noteで記事を書く楽しさは、思いつくことをオートマティックに書いていると思わぬ発想が生まれ、それが気づきになるから楽しい。
最近「ですます調」で書かなくなったのは、「である調」の方がテンポよく書けるから。
テンポに乗って書いていると、言葉が自然と出てきて自分の中にこんな思いがあったんだ、ということに気付ける。
とはいえ、こういうふうに書けるようになったのは、今年の春分を過ぎた頃から。
それまでは思考しながら文章を書いていた。
それでも書くと何かしらの内なる発見があった。
書くことは自分の潜在意識を顕在化させるのに役立つと思う。
書くことは気づきを生みやすい行為といっていいだろう。
お陰で、飽きっぽい性格のわりに長く続いている。
毎日書いていても苦にならない。
書道は小学生の頃に書道教室に通っていた。
土曜の午後、友人と遊びたいという思いを抑えて教室に通っていたから、書道そのものが好きではなかった。
それ以来、筆で字を書くことはなかったけど、最近、ふと思いついて始めたら意外と楽しいということに気付く。
書道教室に通っていた頃の目的は早く終わらせること。
今は、出来るだけ丁寧に書くこと。
やはり、目的を持ってするのと嫌々ながらするのでは、気持ちの持ち方が異なる。
いずれにせよ、毎日、筆で字を書くということを生きている間にするとは思いもよらなかった。
毎日、自分のために文章を書くということも、実をいうと想定外の出来事だった。
「書く」という行為はいわば、僕にとってはいわば未知の行為だったといっていい。
「書く」という行為には、何かしらの意味がありそうだ。
心理学の本などを読んでいたりすると「ジョハリの窓」というワードに出会う。
ジョハリの窓とは、自分の視点と他者の視点をもとに自己分析をするもの。
図の右上にある「解放の窓」とは、自分が知っていて他者も知っていることを指し、僕は男であると認識し他者もそう認識しているというような状況を指す。
自分の認識も他者の認識も一致しているという状態。
その下の「秘密の窓」は、自分は知っているけど他者は知らないという意味。
たとえば僕は男だけど心は女性だと認識していたとしても、そのことは他者は知らないという状態であり、秘密を僕一人が持って生きている状態といっていい。
逆に「盲点の窓」は、僕が男だと思っていて過ごしているけど、他者から見ると見た目は男だけど、もしかして心は女性なんじゃないか?という認識があること。
僕は男だと思って生きているけど、自覚できていないところで女性的な言動が出てしまっていたりする。
そして「未知の窓」とは、僕も他者も僕の心が女性であるということに全く気付いていないという状態ということ。
しかし「未知の窓」が開かれると、僕の中の女性性が全開に解放される可能性もある。
こういった感じで、ある物事を自分と他人の視点で見た場合に認知の様子を4つに分けることができるというのが「ジョハリの窓」。
つまり、僕にとっては「書く」ということは「未知の窓」の領域にあったものだけど、その扉が開かれたとき、それが自分にとって「しっくりくる」という気づきを得ることができた。
未知の窓の気づきを公開し他者も認めることができると、その認識は「解放の窓」へ移っていく。
人は大概、自分が持っている知識で物事を判断するもの。
しかし、他者が持っている情報は、自分では知り得ないことがあるからこそ、他者の話に耳を傾け取り入れようとする。
その一方で、自分も他者も知らない情報(未知の情報)に出会うことが、自分にとって転換期になることがある。
つまり、全く予想外の出来事が、自分にとっての「道」になる。
ちょっとしたきっかけが人生の方向性を変えてしまう。
昨日の記事の最後に、「心地よさというフィーリングが、お金や情報を超える結果を与えてくれる」ということを書いたけど、そういったフィーリングや直観、ふとした思いづきが「未知の窓」を開くきっかけになる。
そういった意味でも、あまり難しく考えずに、思いついたことをやってみたりしていると「未知の窓」を開くきっかけになるし、フィーリングで感じたことを生活に取り入れていくといいかもしれない。
さらに「未知の窓」を開け続けていると「解放の窓」が大きくなっていき、窓が解放されればされるほど潜在意識を顕在化できるようになり、自由に生きていくことが可能になる。
潜在意識は宝箱でもある。
そういった意味でも、面白がって「未知の窓」を開いていくと、生きることが楽しくなっていくといってもいいだろう。
「未知の窓」は「気づき」が生まれる領域でもあるから、「未知の窓」を開いていく方法として、思考を空にし気付きが生まれる状態を作って行く。
「気づき」は、既知の情報を超えたところからやってくるもの。
入浴中や寝起き、瞑想中などに「気づき」が生まれるのは、思考という情報から離れることができているから。
思考が繰り出す情報から離れることができると、計算抜きの情報を得ることができる。
計算された情報は、計算外の行為を生み出すことは難しい。
しかし、計算のない情報は予想外の結果を生み出しやすい。
奇跡とは「未知の窓」を開いた結果といってもいいだろう。
そこで一定の時間、計算の必要としない時間をつくることで「未知の窓」を開くきっかけをつくっていく。
出来るだけ心地よい時間を生み出し、意図して思考を休めるようにしていくと「気づき」を生みやすくなり「未知の窓」を開けるようになる。
また自分が楽しいと思っていることをしていると、次々にアイデアが出てくるから、そういったアイデアが気づきを生み出すということもあるため、楽しいと思えることを率先してすることも欠かせない。
いずれにせよ、自分の中の未知を既知に変えることができると可能性を広げることができるようになる。
さて、先ほどの「ジョハリの窓」の説明で、僕の性自認のたとえを出したが、今のところ僕の性自認は男で「開放の窓」に位置しているけど、何かの拍子で「未知の窓」が開かれる可能性もなきにしもあらずだったりする。
人生どう転ぶかは全く未知だったりする。
いつもサポートありがとうございます。感謝ですー😆👍💓