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ドストエフスキーの「ロシア語のすすめ」―『作家の日記』より⑥―

トルストイの『戦争と平和』が、冒頭いきなりフランス語の会話で始まることは、よく知られている。

ロシア文学を代表する国民的な大長編小説がフランス語で始まるとは、一見奇妙な話であるが、これは、冒頭の場面の舞台が19世紀初頭の上流階級の社交界であったためで、フランス語の会話は、史実に忠実な、むしろ「写実的な」描写であったわけだ。

『戦争と平和』に限らず、19世紀ロシアの小説を読んだことがある人は、誰でも、上流社会の会話に頻繁にフランス語が出現することはご存じだろう。

とはいえ、現代のロシア人の若者が『戦争と平和』を初めて読む場面を想像すると、出だしのフランス語に少なからず戸惑うのではないか、と考えてしまう。
(もちろん、われわれ日本人が翻訳で読む限りでは、元の言語がロシア語であろうとフランス語であろうと、訳者のおかげでさほど気にならない。)

19世紀のロシア貴族階級の言語生活

『戦争と平和』で描かれているように、19世紀初めのロシアでは、フランス語は貴族階級にとって日常的な意思疎通の手段であり、むしろ自国語よりもフランス語の方が得意な貴族がたくさんいたようだ。

ロシア近代文学の父と呼ばれるプーシキンは、ロシア人の妻あての手紙をいつもフランス語で書いていたそうだ。ツルゲーネフは父の従僕からロシア語を教わったという逸話がある。

しかし、時の経過とともに、フランス語の使用は次第に衰え、19世紀末のチェーホフの時代になると、フランス語は「社会的な地位をもったいぶってみせるしるし」となってしまったとされる。(R・ヒングリー、川端香男里訳『19世紀ロシアの作家と社会』中公文庫、1984 pp.172-173, 259参照)

『作家の日記』一八七六年七・八月号(合併号)に掲載された「将来祖国の柱石たるものはいかなる言語で語るべきか?」と題された文章は、そのような言語状況の変化の過渡期にあって、貴族階級の中に依然として根付いていたフランス語偏重、ロシア語軽視を痛烈に批判する。
すなわち、幼児期からフランス人の保母を雇い、熱心に子どもにフランス語教育を施すというような、母国語教育をないがしろにする習慣に対する強い異議申し立てである。

母国語としてのロシア語教育の重要性

ドストエフスキーは、貴族階級の母親に呼びかける形式で、子どもたちへのロシア語教育の重要性を熱心に説いている。

 実際のところ、いったいなんのためにわれわれはヨーロッパの言葉、たとえば、フランス語を学ぶのであるか? 第一には、単にフランス語でものを読むためであり、第二には、フランス人と出くわした場合、彼らと話をするためであって、決して自分たち同士の間や、自分自身と話し合うためではない。高遠な生活や深い思索の奥までには、借りものの他国の言葉は届きかねる。ほかでもない、それはわれわれにとって、依然他人のものとして終始するからである。そのためには、いわゆる持って生まれた母国語が必要なのである。しかし、ここに一つ待ったが入る。ロシヤ人は、少なくとも上流階級のロシヤ人は、大部分もうとっくの昔から、生きた言葉を持っては生まれず、あとになって一種人工的な言葉を獲得するばかり、そして、ロシヤ語さえも、ほとんど学校へ行くようになってから、文法で覚えるのである。<中略> 偉大なるプーシキンのごときも、その告白によれば、同じく自己を再教育する必要に迫られ、言語や民衆の精神を学んだが、なかんずく、保姆のアリーナ・ロジオーノヴナに負うところが多かった、ということである。「言語を学ぶ」という表現は、わけてもわれわれロシヤ人にふさわしい。なぜなら、われわれ、上流階級のものは、すでにはなはだしく民衆から、つまり、生きた言語から引き離されているからである(言語――民衆、わが国語ではこれはシノニムである。この中になんと豊かな深い思想が含まれていることか!)(岩波文庫版『作家の日記』(三)、一八七六年七月・八月第三章。米川正夫訳、以下同じ。なお、「保姆」は「保母」と同じ)」

ドストエフスキーは、子どもたちがロシア語を「なるべく自然に、無理をせず」習得するためには、プーシキンの例に倣って、ぜひともロシア人の保母から「取り入れなければならない」と述べる。

……こうして、母国語、すなわちわれわれの思索するための言語を、できるだけ完全に、言いかえれば、いくらかでも生きた言葉に似てくる程度によく体得し、ぜひともこの言葉で思索するように自己を訓練すると、そのときわれわれはそれによって、ヨーロッパの言語学に通じたり、幾多の国語を知ったりするロシヤ人独特の才能から、利益を抽出するのである。<中略> さすれば、われわれは外国語の中から知らず知らず、わが国語に縁のない若干の形式を取ってきて、それを同様、知らず知らずのうちに、われわれの思考と融合させ、それによって、いっそうロシヤの思想を拡充することになるのである。

ロシア人に生まれた以上、いかに熱心にフランス語を学んでもフランス人になれるわけではない。言語としての機能を自由自在に駆使しつつ、思索を深めるためには、母国語であるロシア語を使用することが最善である。外国語を学習し、そこからロシアの思想にとって有益な果実を収穫する上でも、あくまで母国語であるロシア語の十全な習得が前提である……。
これらは、いわば当然の主張であると思われるが、「当然」であるはずのことを、あえて声高に唱えなければならなかったところに、当時のロシア貴族階級の言語生活の「異常さ」があったと言えるかもしれない。

ヨーロッパ諸言語に対するロシア語の優位性

さらに、ドストエフスキーは、単に母国語としての重要性にとどまらず、ロシア語の言語的特性として、他のヨーロッパ言語に対する優位性を主張せずにはいられない。

 ここに、一つの顕著な事実が存在する。われわれは、自分たちのまだよく整っていない、若い国語によって、ヨーロッパ各国語の思想や精神の、深奥きわまりない形式を伝えることができる。ヨーロッパの詩人、思想家はことごとく、ロシア語に伝えることができ、訳されうるのである。なかには、もう完璧の訳となっているものさえある。しかるにヨーロッパの各国語、とくにフランス語には、ロシヤの口碑文学やわが芸術文学の作品中、きわめて多くのものが今日まで完全に訳しきれず、伝え得られないでいる。<中略> これはいったいどういうわけか? いうも恐ろしいことながら、ヨーロッパの精神はロシヤのそれから見れば、疑いもなくはるかに完成された、明確な表現をおびているにもかかわらず、ことによると、わが国のものほど多種多様でなく、むしろより排他的な独自性が強いのかもしれない。しかし、たとえこれを口にするのが恐ろしいにもせよ、少なくともわが言語の精神は、文句なしに多種多様であり、豊富で、多面的で、すべてを抱擁する力があることを、希望と喜びをもって認めざるを得ない。なぜなら、まだ整いきらない形式のうちに、すでにヨーロッパ思想の至宝を伝えることができたからである。それが正確に、忠実に伝えられていることは、われわれも感じている。しかるに、これほどの「材料」をわれわれは自分の手で、わが子から奪おうとしているのである、――なんのためか? 言うまでもなく、彼らを不幸にするためなのである。われわれはこの材料を軽蔑し、上流社会の感情や思想を表現するには無作法なほど、粗野で下品な言語だと思っている。

ドストエフスキーは、1873年の『作家の日記』の中でも、ロシア人はディケンズをロシア語訳で読んで、ほとんどイギリス人と同じように理解できるのに対して、プーシキンやゴーゴリのいかなるヨーロッパ語訳も、これらのロシア語作品の本質を決して伝えることができない、という趣旨の考えを述べている(「ドストエフスキーの絵画論―『作家の日記』より①―」参照)。

ドストエフスキーによれば、どうやらその理由は、ロシア語という「材料」の特性によるのであって、ロシア語の精神が「多種多様で、豊富で、多面的で、すべてを抱擁する力」を備えているためであるらしい。

このようなロシア語の「優れた特性」を誇るドストエフスキーの優越感は、他方で、ロシアは決してヨーロッパから理解されえないという疎外感・孤立感と表裏一体のものであり、前にも書いたように、それは、ドストエフスキーの「アンビバレントな選民意識」あるいは「傷つけられた愛国的感情」とでも呼べそうなものであったように思われる。

一方通行の翻訳

しかし、文明先進国と後進国との間で翻訳が一方通行となるのは、なにもヨーロッパとロシアの間に限ったことではない。

ピョートル大帝の欧化政策以来、ロシアが先進的なヨーロッパ文明を熱心に吸収し、ヨーロッパ諸国の思想や制度、科学技術を習得する過程で、フランス語や英語からロシア語への翻訳作業が精力的に行われたであろう。

後進国が先進国に学ぶ際に一方通行の翻訳作業が行われるのは当然のことであり、これは、西洋近代文明の受容にいそしんだ明治維新以後の日本にも、そのまま当てはまることだ。

おおざっぱに言えば、そのような先進文明の受容という過程を経て、最先端の制度や技術や習慣が広く普及していく。世界は最も進んだ文明の標準的なモデルへと収斂され、人間の生活は画一化されていく。
早い話が、着物を脱いで洋服を着たり、草履を脱いで靴を履くようになるわけだ。民族や地域に固有の伝統的で多様な生活様式が、世界標準の生活様式へとアップデートされていくのである。

先進諸国の文物の自国語への翻訳作業は、そのような文明化の過程と同時並行で行われる。
思い切り乱暴な言い方をすれば、それは、標準的・画一的な文物をそれぞれの民族に固有の言語に取り込む作業であろう。

ドストエフスキーの表現を借りれば、ヨーロッパの精神は「完成された、明確な表現をおびている」からこそロシア語への翻訳が容易なのであり、その逆に、「多種多様で、豊富で、多面的」なロシアの精神をヨーロッパ言語で表現することは、はるかに困難であることは当然だろう。

ロシア人がディケンズをロシア語訳で読んで、ほとんどイギリス人と同じように理解できたとすれば、その時、すでにディケンズは「世界文学」と呼ぶに値する普遍的なものとなっていたからではないだろうか?

言語を超えた文学の普遍性

ドストエフスキーは、上記の1873年の『日記』の中で、自嘲気味に「わが国の偉大な才能はすべてヨーロッパ人にとっては永久に、まったく知られずして終るべき運命を担っているのかもしれない」と述べている。

しかし、幸いなことに、ドストエフスキーの悲観的な予測を見事に裏切って、今日まで、プーシキンに始まる19世紀ロシア文学、そして、とりわけドストエフスキーの文学は、まさに世界文学の最高峰の地位を占めている。

このことをどのように考えたらよいだろうか?

遠く時空を隔てた外国人、たとえば現代の日本人は、ドストエフスキーと同時代のロシア人が理解したように、なにより作家本人が意図したように、ドストエフスキーの文学作品を理解しているだろうか?
「多種多様で、豊富で、多面的」なロシア精神をロシア人と同じように感得できるようになっただろうか?

残念ながら、決してそうではあるまい。

われわれがドストエフスキーの文学にふれることで魂を大きく揺さぶられるのは、ドストエフスキーの「アンビバレントな選民意識」や「傷つけられた愛国的感情」を共有するからではない。
19世紀のロシア人がディケンズをロシア語訳で読んで共感したのと同様に、そこにわれわれ自身にとっても重要な意義や価値を見出すからであろう。
ドストエフスキーの文学が世界文学の最高峰であるという意味は、それらの意義や価値が、ロシア人に固有の民族的・伝統的な精神を超越した、全人類的な普遍性を帯びているということにほかならない。

そして、語義矛盾のように聞こえるかもしれないが、ドストエフスキーの普遍性は、まさにロシア精神さながらに、多種多様で、豊富で、多面的で、すべてを抱擁するような力であるように思える。

ドストエフスキーを体験するということは、個々の読者が、そのような普遍性の正体を自分なりに解き明かそうとすることなのかもしれない。

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