見出し画像

「人」は「人」に生きているのかもしれない


「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」

福沢諭吉が残した書物『学問のすすめ』より。


確かに思うところ「人」という存在より上、下の「人」など存在しません。

人という同じ層の中にはたくさんの種類の人がいますね。


つまる所、人に優劣をつけること自体間違っている気がして、

どうしても優劣をつけたいのなら、

「人自体の価値」ではなく「持っている能力の価値」

を比較する必要があるんじゃないかなと思ってます。


ただこうした諭吉が残した言葉とは裏腹な言葉も生まれてしまっているのも事実。

それがよくパワハラだと言われる場所にて使われているであろう言葉。

「お前は人間以下だ」

「お前は豚だ、虫けら以下だ」

(私も言われたことありますが、そんなわけあるかっっ!)

みんなおんなじ人間やっちゃ。


よく考えてみれば人より上の存在なんていないわけで、

みんな同じ人間。

人を超越した人という時点でもう矛盾してる。

そんな存在がいるなら問いたい。

「あなたは神と人間のハーフ、釈迦ですか」

#なんのはなしですか


そんなわけでちょっとおふざけ迷走してからの話を元に戻しましょう。

やはり思うのは、人って支えがないと生きていけない

ある種の「弱い生き物」だとも言えると思うんです。


たとえばですが、自分がギブだけを永遠に与え続けることはできない。

ギブしたら、やっぱりテイク(褒美)が欲しくなる。


まるで物々交換のように、

自分が誰かを支えるサービスや仕事をして、

そしてその後誰かが作ったサービス、仕事に支えてもらって、

自分が休むことができたり、自分がご飯を食べることができたり。


この流れって、私たち社会で生きる上での基盤の流れだと思いますが、

なぜはるか昔からなんだかんだこの「社会」で生きる、

というシステムは変わらないのことを考えると見えてきた答えがあります。


それは誰もがみな「不完全」だから。

みんな苦手なことがあって、

誰かが苦手と思うものが得意な人もいて、

逆に自分が得意と思うものが苦手な人もいて...


そんな風に、お互いの不完全さを埋め合う、

いやむしろ埋め合わないと「生きていけない」。

だからこそみんなで支え合うという構図は昔から続いてきたのかなと思ってます。


誰しもがみな完璧でなんでもできたらきっと「社会」はできないでしょうし、

あったとしたら「崩壊」してしまいます。


このnoteでも然りですよね。

自分の書きたいことがあって書いたり、

自分の経験から書いてみたり。


そんな中でも多種多様なテーマがあって、

それぞれ書き手が違うのは、

自分が不完全、つまり得意とするものが違うからですね。


10人いれば10色の素晴らしさがあって、

100人いれば100色の輝きがそこにある。

ひとりいればひとりだけの色を持っている。


みんな違う色を持ってる。

あなたは「人に生きる」ことをどう考えるでしょうか。


ここまでお読みいただきありがとうございました。

ぜひ、いいなと思った方は👍とフォロー、Xにて拡散をしていただけるとうれしいです。

それでは👋


▼書き手紹介✒️

クリエイター名:【あけぼの博士】

テーマ:マイナス思考をプラス思考に変換していくことをテーマにしてます。

ぜひ好奇心や学びの姿勢を生かせるコンテンツをこれからも随時配信していくのでこれからも見に来てくださいね✨

▼より詳しい私の自己紹介はこちらから✨

▼そしてXもやっているので、良ければフォローお願いします🙇

あけぼの博士のXのアカウント

応援していただいたサポートはまた新たな創作のタネへと変換させていただきます!そしてサポートいただいた方の最新の記事とともに紹介させていただきます✨