不登校を乗り越えて4 一喜一憂してしまう
この文章は、息子と娘が不登校になった頃の記録です。
ご興味を持っていただけましたら、
不登校を乗り越えて1~今悩んでる人へ~からお読みください!(^^)!
退職
体調を崩してから、職場へ行けなくなってしまった。
職場の先生は(幼稚園勤務なので先生)私の状況を理解して下さり、復帰を待ってくれたが、見通しが立たず残念ながら退職する事となった。
幼稚園の生活補助の仕事はとても充実していて、やりがいを感じていた。子供好きな私はいずれ、保育士免許も取りたいと考えていた。
「続けたかった…」と、私は夜中一人で声は出さずとも結構泣いた。
送り迎えで、なんとか登校していた娘が、学校へ行けなくなってしまった。
度々休んだり、早退したりする理由を友達から聞かれたという。「ずるいよ」と言われた事もあったそうだ。
3人で家にいる状況が2週間ほど続いた。
「離婚」になったのに、2人の子供を抱えて「退職」になってしまい、不安で胸が押しつぶされそうになった。
横になって天井を眺めているとドキドキドキと胸がくるしくなった。「はぁ。私は何やってるんだろう本当…」
口座の通帳は夫が持って行ってしまった為、生活費もどうなるかわからない状況。先が見えない。
このまま止まってしまったら動けなくなるような気がして怖かったから、目の前の事をがむしゃらにこなしていた。
子供のマネージャー
退職したことで時間の余裕ができ、少しずつ外へ出られた。運転ができるようになってよかった。
起立性調節障害は体を起こしていることがつらい病気のようだ。息子は横になる方が楽で、そのうち寝てしまう。とにかく生活リズムを整えて起きていられるようにサポートした。
体を起こして夢中になれることがあれば、ゲームでも漫画を読むでもなんでもいいと思った。
息子が部屋に閉じこもりきりで、日の光を浴びてないことも気になり、声をかけ外へ連れ出した。
コンビニで食べたいものを買ってドライブをした。息子は海が好きなので近くの浜辺にもよく連れて行き、海辺で無言でフリスビーをした事もあった。思春期の息子が母親と遊ぶなんて嫌だったかもしれないが、無理矢理さそった。フリスビーがキャッチできず落ちるとたびたび笑顔が見られて、それだけでも嬉しかった。
娘も少し回復して、1時間の別室登校ができるようになったので、送迎をした。
以前忙しく仕事をしていた私は、休むことが怖かった。家でゆっくりと過ごすとに罪悪感があった。当時は気が付かなかったが、息子の事も、娘の事も少々頑張りすぎたかもしれない。
夕方には2人の担任から電話があったり、訪問してくださった。それぞれに対応してまるで2人のマネージャー状態。
きっとまだ元気になって、学校へ行ってくれたらと思っていたんだと思う。初めての事どうしていいかわからない。
息子と外出する事には成功したが、帰るとすぐに部屋にこもって眠ってしまう。タイミングを逃すと食事もとらないまま寝てしまうから気持ちが休まらなかった。
娘の別室登校も行けたり行けなくなったりと不安定だった。不登校の子供は疲れやすく、頑張りすぎてしまうと反動が来てしまう。
パワーが貯まるまで休ませてあげる事が必要だろう。私も同じように頑張りすぎると反動で寝込んだりした。
不登校って一口に言っても、今起こってることすべてが【不登校】という現実なんだと思った。
やった!できた!と思ったら、またガラガラと崩れて落ち込んで、一喜一憂してしまう。「不登校は長期戦なのだ」と言う事を忘れてはいけない。
夫からの差し入れ
別居から1ヶ月程経った頃、夫からメールがきた。「差し入れを買ったから玄関外に置いておく」とたくさんのお菓子やプリンなどが入ったスーパーの袋があった。
その差し入れは結構な回数続いた。
それと不安に思っていた生活費は、入れてくれてありがたかった。お礼はちゃんと伝えた。
私も体調の事で退職してしまったので、せめて子供達と自分の体調が落ち着くまで、このまま離婚は待って欲しいと伝えようと思っていた。
2ヶ月程経ったクリスマスに子供達を連れて実家へ行きたいと言ってきたので快く承諾した。
帰りに私へのクリスマスプレゼントを子供が抱えて帰ってきた。「お母さんにはサンタ来なくて可哀想だから」と夫と選んでくれたらしい。大きな加湿器と冬用のおしゃれなルームシューズだった。
義家族で食事をしたそうだ。夫が席を立った時、義母が娘に 「パパは、いつも夕食の時 泣くんやよ…。お母さんに言っておいてね。」とだけ言ったそうだ。
私たちはあれだけ人を巻き込んで迷惑をかけた。その話を聞いても、心の動かしようがなかった。私は、離婚したとしても子供が望むなら、家族で会ってもいいと思っていた。それに、子供がこれ以上問題を抱えるのはよくないと感じていた。
こういうやりとりが続き 夫は口にしないが徐々に距離を近づけているようだった。
夫が休みの日にこっちにきて食事をしたり、娘の誕生日には出かけようと企画してくれてたり、外出も提案してくれるようになった。夜になると実家に帰っていった。
決定的な言葉がなかったので曖昧なまま時が過ぎた。夫は言葉下手だ。言葉にするより態度で示そうとしたのだろうか。
私からは何も、言わなかった。夫が鍵を置いていった事も頭にあるので 鍵も、渡させずにいた。
結局私たちはこの状態の別居生活が約1年半も、続いた。
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