素人が半年16本モノを書いてみて分かったたった一つのこと
ずっと文章を書くということに、潜在的な苦手意識を持っていた。
苦手意識というか、軽視していたのかもしれない。
なにか写真とかイラスト、グラフィックデザインのような映像・画像表現の方がクールで高尚なモノだと勝手に思っていたし、勝手に自分に合っていると思っていた。
今思えば、論理性や言葉使いで自分の表現の稚拙さがバレるのが怖いだけで、もう少し誤魔化せるビジュアル的なものに逃げていたのかもしれない。
どこかで憧れを持ちつつも、距離をとってきたのが「モノを書く」ということだった。
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転機はおそらく、大学3年生のとき。
留学先で仲良くなって、コロナの期間だったこともあり特に長い時間を過ごした二人の親友がいた。
僕は言葉遣いや感性、博識さに憧れと羨望を覚えていた。
この二人に共通していたのは、どちらも大の読書家だったこと。
自分がこれまで足を踏み入れようともしてこなかったフィールドでの表現者への羨望(コンプレックス)から、自分もコトバを美しく紡ぐ、彼らのようになりたいと思うようになった。
そこから今年に入り、思い浮かんだモノを月3、4本書くようにしてみた。(6月完全にサボってしまったのはご愛敬)
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そうきめて半年、頭の浮かぶ泡沫をとりとめもなく書きつけてきたが、ようやく分かったことがある。
書くのが難しいのではない。
見るのが、読むのが難しいのだ。
文章なんて、書こうと思えばいくらでも書ける。
テーマなんて、見つけようと思えばそこら中にある。
実は文章を書くこと自体は、選ばれし才能を持つものの専売特許でもなんでもなく、ある程度の時間と筆記用具があれば誰でも始められるし、
自分のようにnoteに(駄文を晒すメンタルがあれば)掲載してライター気取りすることもできる。
ではなぜ、いわゆるプロのライターさんや作家さんの文章はあんなにも面白くて評価されているのに、僕たち素人のnoteはつまらないのだろうか。
そもそも描こうと思っている対象を読み切れていない、のかもしれない。
自分が今見ているもの、抱いている感情が何者で、どこから来て、どこへ向かっていくのか。
そこを完全に見つめ切れていないからこそ、他の高名な作家やライターが何時間・何日も推敲してやっと出すような文章を、ほんの数時間で書き上げてしまい、それで満足してしまう。
自分が書いたものをも読み切れていないかもしれない。
書く対象を見る段階で浅はかなレベルでしか見れていないのだから、もちろん書き切れていないもの・稚拙な書き方であふれているに違いないのに、それにも気づくことができず、簡単にステータスを「完成」にしてしまうのだ。
テーマを観察する能力。
アウトプットと向き合う忍耐と審美眼。
よく考えてみれば、イラストや写真もそうだ。
鉛筆の一本でもあればいくらでも頭の中の閃きを絵にできるし、今の時代ではケータイのひとつでもあればその瞬間を写真という形で切り取れるようになった。
そんな世界でも、いわゆるプロのアーティストや写真家の地位が揺らがないのは、彼らは描くこと・撮ることに長けているだけではなく、自身が今まさに描き出そうとしている対象を綿密に観察し、かつ自分の観察の結果を誰よりも辛辣に評価できるから、なのだろう。
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自分のアウトプットと向き合うことは簡単なことではない。
でも、観察という世界との対話、創造という自己肯定、評価という自己否定の(辛い辛い)繰り返しこそが、素人をアマチュア、アマチュアをプロに昇華させるのかもしれない。
僕の友達も、いわゆるプロも、一朝一夕では積み上げられないような量の文章や風景、モノと対話を繰り返してきたからこそ、麗しく言葉を紡ぎ、世界を切り取り、キャンバスを彩るのだろう。彼らにはこれまで触れてきた圧倒的な本・世界・モノがあり、そのことを無視することはできない。
もっと、もっと観察しなければ。
もっと、もっと描いて、書いて、撮らなくては。
もっと、もっと読まなくては。