渡鴉をめぐる冒険に出ます。
こんにちは。上村幸平です。ご機嫌にお過ごしですか?先日は北アルプスの湯俣から伊藤新道を少し歩いてきました。
僕は「自然との関わりのなかでの人間らしい営み」をテーマに、写真を撮っています。自己紹介については前の記事でやたら詳しく書いているので、こちらもどうぞ。
2月から仕込んでいるフォトドキュメンタリー・プロジェクトについて、ついにここでリリースします。この三ヶ月ほど、ほぼずっとこのプロジェクトの準備にかかりっきりでした。なんせ期間的にも、内容的にも、「本当に今の自分に行けるのか/今の自分がやるべきことなのか」と繰り返し自問自答していたところです。
ただ僕の中にあったのは、冬の間氷に閉ざされた大河が、春の訪れを確かめるようにゆっくりと流れ出していく——そんな感覚です。何か大いなる力のもとで自分の足元が、そして行先がとある方向へゆっくりと動いていくような。
僕が長野県に来てから、四ヶ月弱。この場所で繋がりだした点を結んでいくと、なぜかカナダの孤島に住むことになりそうです。
概要(忙しい方向け)
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A WILD RAVEN CHASE —— 渡鴉をめぐる冒険
写真家・上村幸平がカナダ北西に浮かぶハイダグワイ(旧クイーンシャーロット諸島)に一年間滞在し、参与観察的な手法でドキュメンタリー写真を撮影するプロジェクト。夏にハイダグワイ南島(無人島)をカヤックで一ヶ月弱探検し、100年前に打ち捨てられたハイダ族の集落を訪問し、世界遺産にも登録されているトーテムポールを撮影する。同時に、ハイダ族がいかに原生林と神話を守ってきたかを、そして彼らのアイデンティティは今後いかに変容していくかを、現地コミュニティに自分自身も入り込みながらドキュメントする。帰国後には写真集の出版、写真展・イベントを開催する。
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なんて簡潔な概要なんでしょうか。上記の説明で完全にわかったぜ!という方は、ブラウザバックしていただいても構いません。もし僕と一緒にワクワクしてくれる方は、ゆっくり読み進めてみてください。
プロジェクト全容
ハイダグワイってどんな場所?
もし手元に地図帳があれば、北アメリカ大陸の太平洋岸の上の方を注意深く見てみて下さい。南東アラスカからカナダ太平洋岸、アメリカ本土のシアトルにかけてまで、大小さまざまな大きさの島が連なるように並んでいるのが分かると思います。氷河によって長い年月と共に削られ、深く入り組んだ入江と小さな島々が隣接しているこの地域は、フィヨルド地形の特徴を如実に表しています。
ハイダグワイは、「インサイドパッセージ」とも呼ばれるこの多島海エリアに位置しています。かつて「クイーン・シャーロット諸島」とも呼ばれたハイダグワイは、米国・アラスカ州とカナダ・ブリティッシュコロンビア州の国境付近に浮かぶ群島です。大きく北島(グラハム島)と南島(モレスビー島)に分かれ、400を超える無人島が点在しています。(便宜的に「北島」「南島」と呼びます)
緯度にして、北緯52~54度。日本本土最北端の宗谷岬よりも10度近く北にあります。カナダ、アラスカと聞けば一面真っ白な氷の世界をイメージしてしまいますが、ハイダグワイが属するこのエリアは気候区分で言えば日本と同じ温帯。月平均最低気温は0度以下になることはありません。
日本の太平洋岸を通り、アリューシャン列島を通過して南東アラスカに至る黒潮。この暖流と偏西風のおかげで、ハイダグワイは温暖湿潤な海洋性の気候となっています。
事実、年間降水量は5,000~8,000mmと極めて多く(東京の年間平均降水量1,500mm、1ヶ月に35日雨が降ると言われている屋久島の年間平均降水量5,000mm)、「レインフォレスト」と呼ばれる豊かな深い温帯雨林で島全体が覆われています。その環境が育んだ特異な生態系から、しばしば「北のガラパゴス」と呼ばれることも。
ハイダグワイの南島とその周辺島嶼部はほぼ無人エリアで、人々が住んでいるのは北島。4,500人ほどの人口が、北島に点在している街で生活を営んでいます。その人口の半分ほどは、歴史的にハイダグワイを治めてきた先住民「ハイダ族」が占めています。
今回のフォトドキュメンター・プロジェクトは、活動として大きく二つの柱で成り立っています。ここでは、「探検活動」と「参与観察的取材」について、少しだけ詳しくお話しさせて下さい。
探検活動
ハイダグワイの南島は、北島に隣接する一部地域を除いてほとんど全てが無人地域。道路はもちろん、電気も通らず、電波もまばら。アプローチ方法は海路のみ。夏の2ヶ月、気候が安定するときのみ開催されるボートツアーを利用する以外には、自分で船を漕いでしか南島の核心部には迫ることはできません。
僕の今回のプロジェクトにおいて、一つの柱をなすのが、「ハイダグワイ南島・周辺島嶼部を、シーカヤックを用いて巡る」ということ。この地の歴史、ひいては先住民のアイデンティティに迫るには、南北200km超の広大な多島海エリアを、あくまでカヤックという人力の手段で取材しなければならない、と確信しています。
なぜ誰も住んでいない島々を、わざわざカヤックで旅しなければならないのか?それに答えるには、この地の先住民が辿った悲しい歴史を追わなければなりません。
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時にして最終氷期。北アメリカとユーラシア大陸が陸続きだった約一万八千年前のこと。僕たち日本人の先祖でもあるモンゴロイドの集団は、北方アジアからアラスカに渡りました。その多くは暖かく住みやすい場所を目指して北米大陸をゆっくりと南下して行きましたが、彼らの中に、当時はバンクーバー島と大陸棚で陸続きだった現在のハイダグワイに定着したグループがいました。
彼らこそが、ハイダ族。少なくとも12,500年前から現在にいたるまで、ハイダグワイに居住するファースト・ネーションです。
この地で花開いたのは、ハイダ族の神話世界。ワタリガラスを世界の創世主と仰ぎ、動物と自分達を「ワタリガラスのクラン(族)」や「ハクトウワシのクラン」のように存在として結びつけ、たくさんの神話が語り継がれました。族の象徴となる動物を模した独特なアートが生まれ、荘厳なトーテムポールも多数彫られました。自然と自分達を決して切り離さない。ハイダグワイの芳醇な自然こそが、彼らのアイデンティティの根幹を成していたのです。
時が流れ、大航海時代に次いで植民地主義の時代。西洋人が海に繰り出し、西洋文明が世界の様相を完全に変えてしまいます。ハイダも例外ではありませんでした。
アラスカの自然風景や動物の写真と、その宝石のような美しいエッセイで今もなお多くの人を惹きつけてやまない写真家・星野道夫さんも、ハイダの世界に魅了された一人でした。星野さんはシベリアでの熊の事故で亡くなる前の数年間、南東アラスカの神話世界に深い関心を抱き、ハイダグワイにも三度ほど訪れていたようです。
19世紀後半にハイダグワイを襲った天然痘のエピデミックは、「コロナ禍」なんて生ぬるく見えてしまうほど悲惨なものでした。当時のヨーロッパではワクチン接種や感染者隔離などの公衆衛生は普及していたのにも関わらず、植民地政府はただハイダ族を強制移住させ、村を焼き払うのみ。結果として、七千人弱いたハイダ族の人口は千人を切ってしまう事態に。生き残ったハイダの人々も、元住んでいた村を捨て、北島のマセットとスキドゲートという二つの村が残っただけでした。
南島にはトーテムポールや村跡は当時のまま残され、百年以上のあいだ、雨に打たれながら自然に還る日を待っています。
ハイダ族の悲劇の舞台となった南島の大部分は「グワイ・ハアナス国立公園・保護区およびハイダ国定史跡(Gwaii Haanas National Park Reserve and Haida Heritage Site)」として登録されており、国立公園として極めて厳重に保護されています。一緒に行動できる人数、同じ場所で滞在できる時間、同時に入域できる人数は厳しく制限され、この地に入る前には必ずレンジャーのオリエンテーションを受けなければなりません。それは、世界有数の降水量を誇るハイダの気候が作り上げた豊かな温帯雨林はもちろん、100年以上前に打ち捨てられ、自然に還るまま保管されているハイダ族の村跡とトーテムポールを守るために他なりません。
神話の時代を生きた人々の痕跡が、その時代の残り香が、確かに残っている場所。僕はその地を、シーカヤックという手漕ぎボートを使い、食料・燃料・テントも全て載せ、人力で巡りたいと思っています。南島の陸路で モレスビー・キャンプから、世界遺産にも登録されているスカン・グワイ(アンソニー島)まで、およそ200km。1日20km漕ぐ計算でも、片道10日間かかる遠征です。
それでも、カヤックというこの地の人々がずっと移動手段として用いてきた手漕ぎの船で、彼らと同じ目線に立ちながら、自分の身一つでハイダグワイの自然と向き合いたい。そして、グワイ・ハアナス国立公園に点在するハイダ族の集落跡を歩き、トーテムポールを訪れ、自然に還ってゆく姿を見届けたい。取材の足としてシーカヤックを用いたいのは、僕なりの彼の地への、ハイダの人々へのリスペクト、とも言えます。
参与観察的取材
カヤックをして南島の島嶼部を巡り、少しばかり観光して帰るなら、滞在期間はせいぜい一ヶ月、長くても二ヶ月あれば十分。なぜ僕は一年間も滞在しようとしているのか?ここでプロジェクトの第二の柱、「ハイダグワイ北島に一年間滞在し、参与観察的手法で人々の営みをドキュメントする」ということについて、少し書いておきたいと思います。
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参与観察、という言葉を聞いたことはあるでしょうか。参与観察(さんよかんさつ)とは、社会学や人類学・民俗学の領域の調査方法の一種。調査者は対象となるコミュニティに、数ヶ月から数年という長期間の間、コミュニティの一員として生活します。その上で、対象社会を直接観察し、その社会生活についての聞き取り・ドキュメントを行う調査手法です。
「記事を書くという意図があって取材する」だったり「その人の、そのシーンの写真を撮る」といった何かアウトプットの目的ありきでの第三者的な関わり方では無い点が、僕は面白いと思っています。あくまでそのコミュニティの構成員として、あくまでその現場で起きていることをシンプルに記述し、ドキュメントする営みです。
僕がこの参与観察という手法を知ったのは、大学を卒業する直前、有志で開いた持ち寄り卒論発表パーティでのこと。開発学的観点からコーヒー生産の持続可能性を論じた学士論文を書き上げたものの、開発学と自分のやりたいこととのリンクが見えなかった当時の僕に、社会学で博士課程を修めた方が教えてくれたのです。自分がやりたいこと——コミュニティに入り込み、その一員としてドキュメンタリー写真を撮る——ことに名前がついていて、それがれっきとした社会調査の方法として認められているなんて!目が覚めるような瞬間でした。
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現在、無人エリアである南島とは対照的に、ハイダグワイ北島(グラハム島)には街・村が点在しています。そのうちのマセットとスキドゲートという村は、先住民のハイダ族のコミュニティ。驚くことに、彼らはいまだ神話の時代の営みを継承し続けているといいます。
「先週、大きなポトラッチ(先住民の祝祭)があったの。あの規模のものは貴重だったわ」
そう話してくれたのは、ハイダグワイのマセットに住むミドリ・カンポスさん。日系四世のカナダ人女性です。彼女はハイダ族ではなく、この地に偶然惚れ込んで移住し、早八年。彼女が働いているのは、先住民コミュニティの青少年教育機関。現地の子供や青年のメンタルヘルスを守るために、ワークショップやイベントの運営にも携わっているとのこと。
不思議な出会いが複雑に重なり合って、現地在住のかたのお話を聞けたことも奇跡のようなものでしたが、彼女の語った内容にはそれ以上に惹き込まれるものがありました。「トーテムポールも新しく建てられたの。みんなが歌って、踊って、大きなものとのつながりを感じて。本当にマジカルな時間だった」
そもそもカナダの先住民は、ハイダ族の人々は、何を考え、どんな生活を営んでいるのか?彼らはいかに自分達の伝統や神話を継承しようとしているのだろう?人口の半数が外部から移住してきた人間が占める現在、ハイダグワイのアイデンティティを守るという点で彼らはどのような関係にあるのだろうか?
こんなもの、答えありきでぱっと取材しすぐ帰る、のような方法で到底分かるものではありません。その場所に住み、一緒に手を動かし、同じ時間を共にして——参与観察的な手法を通して——やっと体感できることなのだろう、と僕は思います。
考え続けるという誠意
「ここには、知りたいものだけを知り、見たいものだけを見て帰ってしまう人々が多すぎる。ハイダ文化はやっぱり魅力的だから」
住居や仕事探しを最大限手伝うよ、と歓迎してくれたミドリさんが最後に言ったことを、僕はずっと考えています。「だから、君がなにをコミュニティに与えることができるか、ぜひ考えて欲しいんだ。」
一年間の滞在を目指しているとはいえ、ビザ的に半永久的には滞在できない身。「参与観察的手法」と声高らかに謳い、たとえコミュニティに入り込むことがうまくできたとしても、ゆくゆくは去っていく自分。僕は彼の地に、現地の人々に、いったい何ができるだろうか。写真を撮る?言葉を紡ぐ?SUSHIを握る?
まだ、明確な答えは出せていません。ただ、この問いをハイダの地を去る瞬間まで考え続けること、現地の人々に対するリスペクトと誠意を忘れないこと——そのことを忘れずに、今は準備を進めるのみだと思っています。
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個人スポンサー・企業協賛を募集します!
今回の遠征に、そして帰国後の写真展や写真集出版などに、共にワクワクしてくれる個人スポンサーを集めます。また、ギアや遠征資金を補助してくれる企業などを探します。こちらについてはまた後日、詳しくリリースします。
投資でもクラウドファンディングでもない、新しい挑戦の叶え方を提案できると面白いな、と思っています。やるぞ〜〜
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📚写真集を出版しました。
🖋イラストを描いています。
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