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文章練習 エッセイ「死を想い、今日の花を摘む」

『猫鳴り』(沼田 まほかる著、 ‎ 双葉文庫)に寄せて

10代の頃は、今よりも死のイメージが身近だった。死という人生のゴールにどう歩いていくかが、その人の生き方を決めるのだと思っていた。

自由が極度に制限された家庭環境も影響していただろう。辛いことがあっても、生きている限りは、自分の置かれた状況にどう向き合うか選ぶ最後の自由が残されているからだ。

私にとって死を意識することは「これで悔いなく死ねるか?」という自問であり、「まだ自分にはできることがある」という希望でもあった。

10代のひりついた感性、と言われれば、あまり反論できない。年を経てからは、忙しさに流されて毎日を漫然と過ごしている反省がある。それを私に思い知らせたのは、昨年の愛猫の死だ。

彼女は21歳と長生きし、晩年まで元気に駆け回っていたが、食が細くなってからはみるみる痩せて、足元もおぼつかなくなった。

痩せこけた姿に「帰ったらすでに冷たくなっているのではないか」と、職場で嫌な想像をくり返してしまう。それでもしぶとく生きながらえて、約1年の闘病生活の果てに最後を迎えた。

できることはしたつもりだったが、やはり後から後から悔いが押し寄せる。もっとああしてあげれば良かった、本当はこうして欲しかったんじゃないか、といくら考えてもきりがない。胸にぽっかり穴が空いたような、あるべきものがなくなってしまった気がした。

最近は、身内を亡くしたという知り合いの話をよく耳にする。両親も年老いて、いつ病気で動けなくなっても不思議ではない。

年齢が上がり、肉体的な死が身近なものになってきた。しかし前より考えるのは、自分より身近な存在の死についてだ。親しい人の死を受け入れる覚悟が、全くできていない自分に気が付いた。

家に飾られた黒猫の写真を見るたび、彼女と過ごした思い出がよみがえり「身近な人との時間を大事にしてる?」と、ささやく声が聞こえる。


画像引用元:https://www.pexels.com/ja-jp/
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