竹村和子『愛について アイデンティティと欲望の政治学』第3章「あなたを忘れない」後半レジュメ
(本文の形式段落ごとの段落を立てて言い換え、意味段落ごとに分けた。とりあえず読書会を経由してのアップデート前のもの)
(議論の確認)
フェミニズムは、垂直的な父権制に対する異議申し立てとして、「女」の間の水平的な結びつきを強調してきた。しかし、女同士の垂直的な関係性の中での出来事、すなわち無事娘から母が産出されるということがエディプス的、核家族的性制度の根幹であるのだとすれば、この垂直的関係性を直視し、そこをどう撹乱するかということが考えられなければならない。
メラニー・クラインは、前エディプス期、すなわち母と子とが一体である時期を扱った。クラインの理論化は、エディプス的三角形に還元されてしまうものであったが、それでも、母との関係の中にすでに愛の不可能(あるいは愛のすべての階調)が刻まれていること(=「愛の喪失」「憎しみ」)、また、母との関係が一度乗り越えられたら終わりであるわけではないということ(=「体勢」)を見た点はわれわれにとって遺産であったと言える。
この二つのクラインの遺産に関して、後者、「体勢」の観点を強調したのがフェアバーンである。精神分析の理論のうちでは、特権化される性感帯は最終的に性器に「落ち着き」そこを中心にセクシュアリティが形成されるとされてきたが、フェアバーンは、この性感帯の移動という問題を、生殖という物語に頼らず、失われた対象から得られた満足を求めてさまざまな対象を渡り歩く運動として理解する(ここに制度に還元されない関係性の余地が生じる)。しかし、ここでも「母」との関係性が乳房-口唇の関係に還元されてしまうのならば、「母」=「女」という短絡が生じてしまうし、また、そうした短絡を生じさせたまま、「男」の性感帯移動も「女」のそれも全てを乳房-口唇関係の変奏としてのみ理解するフェアバーンには、対象関係の渡り歩きの中での(自身がその上に乗って議論しているはずの)性別分化への批判的視点は生じ得ない。
フェミニズムも精神分析も母との関係に関して語り落としがあるのは、そもそも母への愛が「現実感覚のないもの」とされてしまうからではないか。我々は、ともすれば母からの愛を当然のものと考えてしまう。さらに、その母との関係からそこから「現実」(=象徴界)へ降り立つことのできるのは、現在の性制度においては男性のみとされ、「娘」は、自分の母を忘れられない未熟な存在とされながら、同時に、ひとりの「女」であるその母となど愛の関係を持ちえない「母」や、「補完的な性主体」としてのみ「現実」に連れ出される。
「現実感覚のない」母との関係にメスを入れたクリステヴァは、母子未分の関係から抜け出すことの困難の中での愛の必要性や、抜け出し自己形成していく過程が決して単一的な物語ではないことを強調しようとする。しかし、クリステヴァの強調は裏目に出ているところが大きい。彼女が抜け出すことを愛によって助ける存在を「想像的父」と呼び続けるとき、(「父」が引き離してくれる)「母」は依然として抜け出されるべき混沌(あるいは、不可能なものになった理想)になってしまう。
しかし、愛しながら裁かず一つの個体を生み出す「想像的父」とは、子を孕み、抱き、そして送り出す「母」のことに他ならない。クリステヴァは、娘と母との間では二者が同質的な存在であるがゆえに、愛=分離が生じるとは言わない(=「娘」の未熟さが理論のうちに残される)。しかし、二人が同じ性であるといっても二人は同じものではない。
加えて、クリステヴァは、一方でこの「現実」においては、母との愛の関係は不可能なもの、おぞましきものとして影響するとしながら、それらが「現実」に対して及ぼすのは男児に対する精神病理や美的快感の可能性でしかないとして、女児への作用や、幼児の母との愛に潜性する制度撹乱の力を語らない。娘に投げかけられる「おぞましきもの」(=母の愛の「現実」への作用)は、(娘が一人の人間になるために)失敗すると分かっていながらもなお為される「わたしを忘れないで!」や「〈父の娘〉になるな!」といった叫びではないだろうか。クリステヴァが語らなかった「おぞましきもの」のこの側面、すなわち、娘を愛した母の最後の叫びを、どうやったら忘れないで生きることができるのだろうか。そして、母と娘との関係を(さらにはそれに基づいて展開される性体勢を)撹乱する場所は、そこにしかないのではないか。
娘のメランコリー(182-193頁)
¶48-55(182-188頁)母と娘の間の愛をどのようなものとして語るか。
近代家族のうちで禁止されている近親姦とはいかなるものだろうか(1)。フロイトはその内実を、子が男児であるか女児であるかによって異なるものとして理論化している。男児の近親姦願望は、男根期(2-3歳ごろ)に両親の性交の光景に対して、同じ方法で自身も母を肉体的に所有したいと思うという形をとって成立する(そして禁止される)(2)。一方で、女児の場合のそれは、①去勢コンプレクス=ペニスを持っていないことの発見による母への愛の断念(男児と異なって、母の愛をめぐる父との闘争の「土俵に立つ」ことすらできない)、②持たないものとして自身を生んだ母への非難、③異性の親への愛としての女児のエディプスコンプレクス=ペニスを持つ父への憧れ(=ペニス羨望)、という段階を経る。ここでの父への愛は、のちに父以外の異性にその愛情が転移することによって解消されるが、いずれにせよ、この愛は禁止されるのではなく、「正しい」性対象選択への「正常な発達」と見做されている。
以上から確認されるべき最も重要な前提は、(男児-母の関係のみが禁止されることよりも)禁止されるべき近親姦は性器的なものであるということである。このことに重ねて、精神分析理論からすれば近親姦タブーが性的自己形成において決定的であるがゆえに(3)、形成後の愛の交換まで性器的な次元で捉える見方が成立してしまう(4)。そして、性器的でないがゆえに女の母への愛は大きな問題ではないとされ、また、母への愛と失望、父への愛とその転移とをプロセスとする、女の「正しい」愛(=性器性愛)が複雑であるがゆえに、女は性的に未熟だというフィクションが生まれるのだ(5)。
近親姦は、前エディプス期(すなわち、性器性愛ないし「正しい」性愛に向かうことの始まる前)を論じる議論ではどう解釈されているか。ジュリア・クリステヴァ(1941-)の議論では(6)、前節で確認したように、「想像的な父」が、母への愛から父に向かう愛への移行に対して大きな役割を果たすとされているが、もしこの役割を果たすのが母ならば異性愛的対象選択はうまくいかないとされる(7)。しかし、「正常な」性愛を重視するクリステヴァは、そこでも母と娘との間では同性愛の断念が生じ、その熱情が「魂」の次元のもの(=身体的、性器的でないもの)になると論じている。母への愛を男児において性器的な次元のものとして、一方女児において精神的な次元のものとして(のみ)論じたフロイトも、クリステヴァも、ここでは同じである。つまり、禁止されるべき愛(それは社会的に存在することが許されてはいないが、認められている愛でもある!)は、性器的なものであり、母と娘との愛は、そのようなものではないということである。
しかし、人はどのようにして誰かを愛するか。精神分析も認めるように、「わたし」と「あなた」との区分のない世界から人は抜け出して(=分離)「わたし」となる。「わたし」は、その抜け出した場所で、もはやない“あの充足”を思い描いて「あなた」を愛する。ここで自己同一化は愛する能力の獲得と同時である。そして、それは、愛することなしには凌ぐことのできない「わたし」という存在の寒さを知ることでもある。愛は、恋しいという情動のすべての階調を含む。そこでは、身体性と精神性、接触性と隔たり、同質性と異質性、すべてが愛を構成する。もし「十全な愛」が語られるのだとしたら、それは、愛の不安、それを失うこと、あるいは、それが不可能なものとしてしかないことの上にかけられる虚構の遮蔽幕にすぎない。「十全な愛」の頑強さは、ここでは愛の不可能性の頑強さと別のものではない(8)。
「わたし」が「わたし」になっていくことと、愛する「あなた」に出会うこととは、同時的な事柄である。そこにもしどういう「名」の「あなた」に出会うかの傾向性(=対象選択の傾向性)があるのだとすれば、それは「わたし」になっていくことの中に介入する言語(名前の法)(9)が、恣意的な秩序を自己形成の過程に入れているからにほかならない。つまり、言語に織り込まれているタブーが、一つの愛のあり方を特権化し、成熟した愛=性器的な愛として解釈させるのである。あるいは、「女」を語る言語の中に、性感帯の曖昧さ(「性器的でない」性愛の可能性)(19)、性器愛における未熟さがあるからこそ、そうした一見傾向性に反するような母子の近親姦が緩やかに容認されたり、それが精神的なものとしてのみ読まれるのだ。
男特有のセクシュアリティ/女特有のセクシュアリティ、男の身体/女の身体を生産する言語は、愛を、その二つの性の間の、異性愛主義的で性差別的な出来事に矮小化するものである(11)。異性愛主義的な愛の交換とは、愛のすべての階調を区別するところに成り立つものである。言語はそうした区別を行った上で、生物学的性差に基づく愛の行為を、少なくとも理念的には最優先させる。ここで「男」は男のセクシュアリティや身体に基づいて、「女」は女のそれらに基づいて愛することになる。こうした区別、同一性に基づく愛の解釈学に対して最もラディカルに異議申し立てをしたのはリュス・イリガライ(1930-)である。
しかし、そのイリガライも、能動受動以前の「触れ合う二つの唇」を称揚し(12)、区別や同一性の上に立てられる男根ロゴス中心主義(phallogocentrisme)を批判するにあたって(13)、現状の性制度の検証を飛び越えてユートピアを夢想しているように見える。また、「愛する女」の、この言語で言い尽くせないほどの強い信頼や孤独を語るときに彼女が陥っているのは、クリステヴァと同様の「原初の混沌」へ母性や女性性を回帰させるパターンではないか。
問題は回帰ではない。愛(それは非-愛と隣り合うものである(14))が、そのすべての階調が、どのように、特殊な愛の一形態として矮小化されて解釈されて、また、それと同時に形成される「わたし」がその矮小化の中でどのように形成されていっているのかを検討することである。
母と娘との間にある禁止とは、「抽象的な魂の次元」以外のすべての近親姦の可能性の禁止である。そして、その唯一許可された愛は、女のセクシュアリティを説明するものともなっている。母と「こころ」で結ばれた娘の性的な「未熟さ」。しかし、母娘の愛は「こころ」のつながりだけではない。
¶56-62(188-193頁)母娘の愛はいかにして矮小化されるか。娘のメランコリー。
フロイトは、愛する対象の喪失の心的結果を喪(悲哀)とメランコリーとに分けている(15)。喪は、対象を喪失したことによる外界への関心の一時的な撤収という事態であり、一般的に見られ、また時間を追って回復されるもの、通常病理的であるとは考えられないものである。一方、メランコリーは、喪失による自我感情の低下(=ナルシシズムの喪失)を伴うもので、自己に対する不当な非難や処罰願望、生きる気持ちの喪失などを生み出す病理的な状態である(17)。メランコリーにおいては、愛する対象の喪失を回避するために対象への同一化が起き、その同一化された対象と自我との間での――愛に必然的な――葛藤が再演されるとフロイトは考える(それが日常語となったメランコリー=抑うつの原因となる)。こうした議論を援用して女児のメランコリーを論じたのがジュディス・バトラー(1956-)である。母から分離した(「母を愛してはならない」ものとなった)娘は、その分離を同一化によって乗り越えようとするときに、「母と同じ性を愛してはならない」という命令を受ける。つまり、女児は、母という性対象だけでなく、女という性目標も移動しなければならない。この二重の移動のゆえに、女児の母への愛は、「かつてもあり得なかったもの」(なぜならば、「わたし」は女で、女を愛することはあり得ないから)となる。母を愛するという「この言語」では「考えられない」ことを忘れるために「わたし」は一層、「母」になろうとする。このようにして、女児は「女」の属性を体内化していくとバトラーは論じる。しかし、女児が体内化していくのは「女」ではなく、「母」であることを強調しなければならない。「母」とは、近親姦タブーに関係して、最も性器的であると同時に最も性器的でないカテゴリーである。
「母」は、男児には性器的な近親姦を夢見させ、女児には精神的な交流を約束する。父とは性的な愛の交換を行い、子供とは非-性的な愛の交換を行う。妊娠し出産する性器性愛の母は、同時に「母の愛」の非-性器的なすべての愛の母でもある。娘が母になるとは、この撞着語法の中に入り込むことにほかならない。
母の喪失は、「わたし自身」が「母」になることによって忘却される。「わたし」が愛するものは「わたし」と異なるものなのだから、母への愛などというものはあり得ない。母との間にあったのは「馴染み深さの絆」にほかならない。「母」になる「わたし」が、〔ヘテロ〕セクシズムの法=言語(18)の中で取り込む撞着語法では、「父」との性器性愛が存在し、「息子」との禁止された性器性愛が存在するが、母と娘の愛は、それではないものでしかあり得ない、最も性器的ではないものとされる。
愛は、母と娘との間で矮小化される。そこに欠けている愛の色彩は、「ここではない、どこか」にいつも存在しながら、「ここ」にはあり得ないものとして語られる。
メランコリーは、愛する対象を取り込むことで、愛を持続させながら忘れ去ろうとする操作である。母と娘との間では、その過程の中で、愛は矮小化されて再出現する(19)。メランコリーの抑うつ的心情は、「何を失ったかが定かではない」(20)ことに由来するというが、また、求めるすべてが与えられず部分しか与えられないこと(21)も抑うつを生み出すだろう。この二重の抑うつに貼られるのが、娘の「成熟」というラベルである。
バトラーの語ったように、メランコリーの中で、娘は「女」になろうとする。性器的な関係を引き受けようとするその身振りは、しかし、「「母」になるための準備期間」としてしか、象徴界(=〔ヘテロ〕セクシズム的法の領域)では存在していない。この領域で、男を魅惑しつつ「母」にならない女は、男がそれを目指すものとしての快楽そのもの(22)であって、そこに立つ女が快楽を持つことはありえない。現在の性制度においてもし快楽が女に対して認められるのならば、それは「母」になろうとする(=性器的なものと、非-性器的なものとを区別して、その撞着を引き受けようとする)女に対してであり、そこに参与しない女は、未熟なもの=「娘」でしかありえない。二重の抑うつを経て撞着を引き受けたところにはじめて「女=母の快楽」という餌を吊り下げるのが現在の性制度の言語である。
メランコリーと娘の「成熟」とが張り付いたこの言語の中で子を孕んだ女は、いま「母」になろうとする=「あなた」を忘れようとする限りで、メランコリーの抑うつに「最も暗く沈んでいる」者である。子を産むことと(娘から)母として生まれ変わることは、同時の出来事であるが、それは新しいメランコリー(「わたし」と、「わたし」の「娘」との間のメランコリー)が始まるということとも同時的である(23)。
母殺しのメタファー(194-203頁)
¶63-68(194-200頁)〔ヘテロ〕セクシズムの解体は性の二元性の脱構築によってなされなければならない。チョドロウ批判。
小括。精神分析理論やそれに依拠した理論においては「母なるもの」からの分離(=「母殺し」(24))が自己同一化に欠かせない契機である。だが「母殺し」には、男児の場合と女児の場合とで差異がある。男児は、母への愛を同じ性の別の対象に移動させるだけでよく、男児が母と同じ性を持つということはそこでは(「正常な成熟」において)生じない。一方、女児においては「母殺し」が「母になること」と同時的である。つまり、母殺しは自らを殺すことと重なる。そして、自分を守るために、母を守り、母を守るために、自分を殺す(=メランコリー)。しかし、娘は母を守ることに失敗する。それは、この地点ですでに母を忘れてしまっているからである。つまり、娘が分離することに失敗するのは、母を殺せないからではなく。母への愛を殺したから、「あなた」を忘れてしまったからである。母への愛を忘却せず、同じ性の性対象を求めて、母から分離する(自己同一化する)男と、母への愛を忘却し、母と同じ性になり、母から分離できない女。セクシュアリティの非対称性、男女の主体化の非対称性は、ここで「母(への愛を)殺すこと」という主題と決定的な仕方で結びついている。
ナンシー・チョドロウ(1944-)は、母親業を男女の双方が行うことで性差別的性制度は解体されると論じる(25)。
しかし、チョドロウは、平等な親業は性差別を解決するだけで「ジェンダー化された自己という一次的感覚を脅かすことはない」とし、そのような社会において女が異性愛関係をいっそう満足したものとして経験することを期待するのみである。つまり、家庭内のジェンダーにおける性差別を批判するのみで、それを維持している異性愛主義は批判していない。異性間の差異と同性間の差異について語るときの、チョドロウの「構造的で統計的な真実」の重視は、そうした異性愛主義の堅持と取れる。
「母」をめぐる集合的な物語がもたらすのは(26)、男女の自己同一化の差異、それに基づくセクシュアリティの偏向である。だとすれば、チョドロウの言うような「一次的感覚を脅かすことはない」親業の平等がもたらす「柔軟な性的選択」とはどのようなものか(あるいは、それによって脅かされない「一次的感覚」=ジェンダーアイデンティティをひとはどこから得てくると言うのか)(27)。問題は、異性愛主義の根幹に男女の性別分化という思想があることである。社会通念も、精神分析やそれに依拠した理論も、男児と女児との母との関係への反応に差異を認める時に、性別分化を生み出し、それが、〔ヘテロ〕セクシズムをもたらすのだ。
男児が「母殺し」を行なって女を愛する男になるということだって、生物学的本質主義に依拠しなければ困難なことであり、また本質主義の二元論すら疑わしいものである。出産能力を本質主義的根拠としようとするのならば、不妊、避妊、中絶、養子縁組を取り上げることでその社会的意義の空洞化も指摘することができる。したがって、問題は、局所的な差異をまとめて性の二分法を生み出す知の体制の欺瞞である(28)。そうした体制を支えるものとして、「母なるもの」があり、とりわけ「母なるもの」を再生産するシステムとして象徴界に現れる「母娘関係」がある。したがって、この関係を問題にすることが、「母なるもの」の欺瞞を突き、それを超えて、性の二分法を僭称する知の体制に抵抗する手段となる。
チョドロウを超えて、むしろ、分業する「男と女」「父と母」とは何であるかを問題にしなければならない。分業を超えて、それらのアイデンティティを解体しなければならない。ゲイ男性、レズビアン、バイセクシュアルですら、それら従来の性に依拠して性対象を選択するのだとしたら解体されなければならない(29)。一方ではタブーとされ、一方では忘れ去られてきた性の淵源としての母子関係は、その関係の越えた世界を夢見ることによってではなく、むしろ表舞台に出され、脱構築(30)、撹乱されることによって、経験されるようにならねばならない。
¶69-72(200-203頁)母と娘との水平的な出会いを夢見ること。イリガライについて。
イリガライは、母と娘との間の愛のドラマとその忘却という、現在の性体制が引き起こす悲劇(=メランコリー)を論じていたが、「わたしたちの唇が語りあうとき」(1976年初出、1977年出版の『ひとつではない女の性』に収録)では、そうしたメランコリーの喪失した世界での水平的な女への愛へと、母への愛を変換させている(31)。しかし、その時、既存の言語では、メランコリーなしに存在しなかったはずなのにここに存在している「女」とは何者なのか、いかなる言語で説明されるものなのか。彼女(イリガライ)は、制度とは別の言語で語らなければならない。しかし、こうした言語がイリガライの中で「来たるべきもの」として語られるとき、「現在」の女(「娘」か、あるいは「母」でしかあり得ない「女」)に対する悲憤、否定を生み出していってしまう。
二年後の論文、「一方がいなければ、他方は動かない」では(32)、イリガライは「母殺し」の必要性を語っているようにも見える。「母」から離れない限り、父の言語に私は固定され、そこではもはや「女の解放」はない、「わたし」と「あなた」とが出会うにはそれではない、新たな言語を獲得しなければならないと言うのだ。
だが、ここで行われていることは、単純な「母殺し」ではない。「娘」が目指す忘却は、すでに全階調の愛を忘却してしまった「母」に対してさらに、そこでの「馴染み深さの絆」(それは、〔ヘテロ〕セクシズムを温存させる仕方で建てられている)を忘却するということなのである。分離の後に建てられた精神的なものでしかない「愛」――愛がすべての階調を含む限りで偽りでしかあり得ない「愛」――を捨て、イリガライは、母と執拗に語り合おうとする。「わたし」が娘となる時、「あなた」も制度の中で動く。つまり「母」となる。制度の中で「わたし」が生きようとするならば、「わたし」は「あなた」を殺さなければならない。でも、「わたし」は、「わたし」が生きながら、「あなた」がなおも生きていることを「あなた」に求める。だから、「わたし」は、「わたし」が殺さなければならなかった「あなた」、「母」を、もう一度殺さなければならない。
イリガライは「あなた/わたしの口からほとばしる終わりのない水平線」を求めている。しかし、垂直的な母娘関係から、どのようにして「水平線」は浮かび上がるのか。いつかの未来に託すことでも、その裏返しとして、二度母を殺すことによってでもなく。
女性蔑視の連鎖を断ち切って(204-218頁)
¶73-81(204-211頁)母と娘との間で連鎖するセクシュアリティの二分法。ジェンダーの平等を超えて。
そもそも、核家族イデオロギーは再生産されるとは言えど、個々人が消費活動の中で(↔︎核家族の中で)自己を把握する資本主義社会の進展とともに事実上存在理由を失っていくものである。一方で、理念としてのそれは執拗に残ろうとし、それが、性に関する諸制度、あるいは二つのセクシュアリティを支えるものとなっていく。性別分業の崩壊が事実上起き、それがチョドロウのように促されたとしても、近代的な(性的)自己形成の神話としてのセクシュアリティの二分法(そしてそれを再生産し続ける核家族イデオロギー)は簡単には崩れない。事実上崩壊しつつ足る家族制度のどこで、イデオロギーが残り続け、どこに解体の可能性を探れるのか。
子供が出会う「母なるもの」が、誕生後に出逢われるものとの関係ならば、それを「子宮を持つ個体」に限定するところにはイデオロギーが残っている。さらに、事実上は個と個との関係性のみが存在するはずの社会においても財に関して「正当な継承」が語られ、そこで血縁中心主義という信仰が保持される。かくして「実母」が尊重され、養子縁組よりも生殖技術が進展し、性器によって説明されるセクシュアリティの様態や、それらを維持する「母」が保持される。
理念と事実との分裂を、現在の母は引き受けなければならない。「娘のメランコリー」で見たように、母は、父と子との関係において「撞着語法」を引き受けなければならなかったが、この撞着誤報が、理念と事実との水準でも反復される。すなわち、理念的には性器的な存在とされながら、事実上はもはや非-性器的な関係を生きることとなる。この時、理念と事実との間の二律背反を解消させるためにも、母は、娘を、「父の娘」であり「母の娘」であるものとして、すなわち、性器的であり、かつ、非性器的であるものとして送り出し、かつ、とどめるという操作を行わなければならない。理念と事実との間の矛盾の解決が、一つの撞着語法のうちに(のちに「母」となる)「娘」を置くことで目指され、そして、それによって一層矛盾は温存、増幅される。
あるいは、理想がもはや「女」であることではなく「個」であることに移ったという、保守主義的ではない、「現実」を見据えた母は、母娘関係において、「母」からは逸脱したところで連携し始めるかもしれない。果たせなかった夢の実現か、フェミニズムの物語に従ってか、社会の心性に倣ってか、「現代の母」の条件のためか、性差別などないかのように、娘を扱い、娘の可能性を拡大させようとする。
しかし、社会的な性役割(ジェンダー)だけが解放されようとするならばチョドロウと同じなのだ。すでに「女」の身体をもつ限り、セクシュアリティのラディカルな多様性は認められず、それでも娘を「母」にすることに抵抗する時、取られるのは遅延という戦略である。母は、娘の恋を見張り、〈配偶者よりも大切な母〉になろうとしながら、一方で、ラディカルな多様性、すなわち、非合法的な異性(33)、同性との性器的な関係も遠ざけようとする。かくして、娘の可能性を拡大させることは、性器的な可能性から娘を遠ざけ、非性器的な可能性のみを肥大化させようとする。そこで繰り返されているのは、撞着に閉じ込められた母の、それ以前のすべての階調(セクシュアリティ)を直視しないということの、反復である。
男性の性差別だけが女性蔑視なのではない。性の二分法を受け入れ、あたりまえに「女」である女も、女性蔑視を身体化/内面化しているのだ。そして、もし、ジェンダーのみが解放されればよいとして、自身の身体を無視するフェミニストがいるならば、彼女も(34)、「女の身体」を、逆説的に受容している。否定することによってではなく、むしろ「女の身体」を押し広げることによってしか、「女」は動かない。
そして娘の側も、これを反復する(母の女性蔑視に応えてしまう)ということがある。母の提示する心地よさに自足して、非性器的な関係を生き続けることや、性器的な関係を極めて局所化し、他者との関係(35)を非性器的なものとしてのみ生きるということがある。しかし、こうした性器的な関係と非性器的な関係との乖離は、「あなた」を忘れたがゆえに生まれたものである。そのことが、セクシュアリティの矮小化、女による女性蔑視、セクシュアリティの二分を産んでしまう。
もし、逆に、娘が母の過干渉に反発するのなら、そこでも母と娘の間の愛は忘却されてしまう。そしてそれは、セクシュアリティの二分法の陥穽――「女」は「女」ではなく「男」を(性器的な仕方で)愛するものである――に入り込むことに他ならない。この娘が母になり、そこでも母と娘との身体性が否定されたのならば、この女性蔑視は反復される。
女の女による女への侮蔑をどうやったら抜け出せるのだろうか。今ここにいる「あなた」を殺さない仕方で、「女のセクシュアリティ」の桎梏をどうやったら抜け出せるだろうか。
¶82-87(211-216頁)「母」になることはいつ起きるのか。ハーシュ批判。
マリアン・ハーシュ(1949-)は、母娘関係の考察を、従来の娘の側の主体形成という観点からではなく母の側から考えれば、異なった主体性の概念が現れると主張する(36)。ハーシュは、トニ・モリスン(1931-2019)の小説『ビラヴド』(37)を高く評価し、主人公が、娘に対する権利・言葉を奪われた母親たちの怒りを表現し、自分自身のために最後語り出すと言う。しかし、それは、男の恋人の助けのゆえにほかならず、母と娘のプロットの中に男が戻ってくることによってである。新たな主体性の獲得のためには、母と娘だけではなく、男の到来、家族の再構成が前提になっている。
『ビラヴド』は、母が家庭を捨てて恋に生きることで解放されるといったような物語ではない。そうではなく、一度殺した娘をもう一度殺すという代価によって、父権制に基づく家族が再構築され、母の主体性が獲得されるという物語である。ここに、先のイリガライの叫び、すなわち「わたしに命を与えながら、あなたはなおも生きつづけていくこと」という望みをぶつけよう。母と娘とが、(二人を引き裂き、そこでセクシュアリティの二分法を立ち上げる)異性愛制度から離れて生き続けること。それは、『ビラヴド』の映し出すような再構築された家族の中で、どうなされているのだろうか。そこで現れる「母の」「主体性」とは何であるのかが問われなければならない。
「母」という語、あるいは、「父」「息子」「娘」は、核家族イデオロギーの稼働する近代において現れた語であった。このイデオロギーを補強するために持ち出される精神分析の枠組みは(38)、不安定な存在者が従属化によって主体化するという物語であるが、ここで立ち上がるとされる「主体=個」とは「人間」でも「男」でも「女」でもなく「父」になるべき主体、「母」になるべき主体である。そして、そうした「父」/「母」の再生産システムが固定化されていく(39)。
精神分析、それを支えにした社会、あるいは、核家族イデオロギーと資本主義とが結びついた社会において「母」は個人に先行して存在するカテゴリーである。「女」は、「娘」か「母」かのどちらかであり、「娘」は「母」になる。それらが混淆すること、それによってカテゴリーが自壊していくことはありえないとされる(40)。
しかし、娘はいつ「母」になるのか。いつ「娘」ではなくなるのか。むしろいつ「娘」になったというのか。
「娘」になること、性の二分法の中で「女」の子供になることは、その時点で、「男」を愛する存在になること、したがって「同性」の母を(官能的には)愛する存在にはならないこととなることに等しい。ひとは「娘」になるときすでに「母」になる。だとすればハーシュのいうような「母のフェミニズム」があるのではない。母の忘却、メランコリー、撞着語法の中に入り込むこと、外傷経験として起き、起き続けている、「娘」=「母」になること、その継続的な自己形成の様態のうちにフェミニズムは追求されなければならない。
¶88-90(216-218頁)「わたし」は「あなた」に呼びかける、呼びかけ続ける。
バーバラ・ジョンソン(1947-2009)は(41)、「頓呼法」(例えば「海よ!」)を「生命化」と結びつけながら、そうした技法を用いながら「妊娠中絶」を扱った詩を取り上げる。そこでは詩が、中絶胎児に頓呼法によって生命をあたえながら、その限りで語り手(「母」)を「生命を奪った殺人者」として立ち上げると同時に、彼女が叫び続ける限り、胎児を生かすことができる=罪を免れるということが起きている(しかし詩は終わってしまう)(42)。一方で、男性詩人(例えばマラルメ、ボードレール)が、詩人の芸術的創造を子を産むことと結びつけて語るときには、そうしたアポリアに直面しない(43)。「頓呼法」(あるいはそれに要約される抒情詩)は(44)、詩の歴史において、男にとって「生命化」=(芸術的)生産なのだとすれば、女にとっては「妊娠中絶」におけるアポリアへの直面であったと分析される(45)。こうした分析にジョンソンはラカンの議論――母に対する子の「要求」(demande)(=呼びかけ、頓呼法)が、生物学的な「欲求」(besoin)だけではない、「あなた」がここにいてくれることについての要求であること(46)――をぶつける。「ママ!」には(47)、「ママ」への生物学的欲求(=授乳)だけではなく、その存在が賭けられている。もしそうだとすれば、詩人が母として語る時には、そこでは母(=詩の語り手)の、失われ、同時に呼びかけによって蘇った子に対する(詩の内部での)呼びかけと、(呼びかけというものが常に呼び起こすものとしての「あなたがここにいてほしい」という)子の今いなくなろうとする母に対する呼びかけとが、この頓呼法という修辞技法において交差し、子/母への呼びかけが、母/子への呼びかけの変奏になる。「わたし」は「あなた」に呼びかけ、そのとき「あなた」は「わたし」に対して呼びかける。この呼びかけの中で、何が起きるのか。
「母」と「娘」とが分離可能であるのは、現代の性体制が、「あなた」を忘れさせようとする限りである。ひとつの身体は、「娘」から「母」に流れていきながら、そこでその身体が「母」でもあり「娘」でもあることを忘れられたとはいえ残している。あるいは二つの身体は、「母」と「娘」でありながら、そこに「娘」が「母」となるような時、「母」が「娘」であったような時を残し、そこで重なり合っている。この、ひとつでありながら性体制が「二つ」であると語る身体、あるいは「二つ」とされながら、ひとつであるような身体、ここに女性蔑視の連鎖を断ち切る身体がある。
「わたし」は、もはや「わたし」が捨て去った「あなた」に呼びかける。そして、その呼びかけが、制度とは別様に「あなた」を存在させる。「わたし」は「あなた」を忘れることで別の「あなた」にかつて出逢い直したのだった。今、呼びかける時、そこで忘れられていた「あなた」が、抜け落とされていた階調が甦る。「わたし」は、新しい言語を生み出すこと(イリガライ)によってではなく、今の言語を揺さぶりながら、呼びかけること、「あなた」に対して語り続けることによって、別の仕方で「あなた」との関係を再構築し、そこで性制度を「脱-再生産」していく。
記憶が忘却から立ち現れるとき(218-225頁)
¶91-94(218-220頁)「わたし」と「あなた」との愛。
竹村は、「母」と分離される以前の記憶を思い出す。「わたし」が生きることが、「あなた」の生を吸い取ることと等価であったとき。「あなたはそのとき、わたしであったのかもしれない」。
「わたし」は今、「あなた」と引き裂かれて、「娘」=「母」になって、「馴染み深さの絆」だけで結ばれて、あれほどの愛を生きなくなってしまった。それは、一体であることへの恐怖であったのか(48)、あるいは、一体であることが二人に期待させる依存、期待、残酷さ、罪悪感や後悔といった感情がそこに張り付いていたのか。でも、それだけが「わたしたち」の間にあったのではない。
「あなた」との「性的」な触れ合いが、ある人(49)の言うように「性器的」「非性器的」と呼ばれるものになったとき、「わたし」は「あなた」とのつながりの半面を忘れてしまった。そこで、「わたし」にとって「あなた」は(男性との性器的な関係を方向付ける)憧憬の対象になってしまい、「あなた」に触れることはあり得ないことになってしまった(忘却された挫折)。
「わたし」は「あなた」を忘れない。「わたし」は「あなた」がいてくれることを強く望みながら(50)、「あなた」に触れていた。「母」として「父」と交わる身体と、「わたし」と重なり合った「あなた」の身体は変わらないはずだ。そして「わたし」が「あなた」の身体に縋って生きる時、「あなた」が「わたし」に差し出してくれたのは身体だけではなかった。「わたし」が「あなた」を求めるとき/ためらうとき、「わたし」は「あなた」の心と重なり合っていた。重なり合いながら、そこで、二つの、こころと身体が生まれる。愛すべての中で、こころと身体とは一つになって、「わたし」と「あなた」のそれが重なり合う。
¶95-101(221-225頁)「わたし」は「あなた」にならないまま、無数の関係性を生きる。
「わたし」と「あなた」との間を引き裂きながら「馴染み深さの絆」を建てる言語に抵抗する。だが、その抵抗は同じ言語のなかでなされる。愛の不可能性は(51)、「わたし」と「あなた」との間にも横たわっている。
「母」となった「あなた」のなかの女性蔑視を(52)、「わたし」は回避する。「あなた」に出逢い直すために現在のあなたを侮蔑させようとする罠を(53)、「わたし」は全階調の愛によって逃れ出る。「わたし」は、「あなた」と同じ「性」でもなければ、「わたし」が「あなた」であるというわけでもない。わたしたちは「母」「娘」「女」という言語をずらしていく。
精神分析の語るように記憶が別の形をとって現れるのならば、今の「あなた」は、かつてそうであった「母」でも「娘」でも「女」でもない。そして、今ひとを愛する「わたし」も「女」そのものではない。「あなた」を忘れない「わたし」のなかで、再び現れるこの愛は、「わたし」をそんな狭いところに留めおかない。
「わたし」と「あなた」との間には幾年かの隔たりがあって、それが二人の間に、さまざまなものの間に、区別を打ち立てると人は言う(54)。その隔たりは「わたし」が「あなた」になり、「娘」が「母」になった時、継承されていくものかもしれない。
しかし「わたし」は「あなた」ではない。「わたし」が「あなた」の眼の中に見るのは、母の娘である「あなた」なのだ。「わたし」と同じ物語の中で、母を忘れなければならなかった「あなた」。その時、わたしたちは、「母」であることが「娘」でもあること、「わたしたち」が「母-娘」であることを思い出す。「あなた」が「わたし」の母でもあるように、「わたし」も「あなた」の母でもある。「あなた」の淋しさ(=「分離」を糊塗した〈不在〉)に「わたし」が出会う時、希望(=「分離」を内包する〈存在〉)が生まれる。
この性体制の中に住まいながら、「わたしたち」は、その〈住所表示/呼びかけ〉を変えていく(55)。
言語の内部にいながら、「わたし」は「あなた」との愛を、「あなた」が生きた愛を思い出し、その記憶から現在の物語を――もはや集合的な物語を無効にしてしまうような物語を――生み出す。「わたし」は今ここにいる「あなた」を忘れずに、すでに忘れられてしまったことをもう一度思い出し、そのことによって、終わりのない「水平線」(56)――それは、どちらの方向にも垂直であるような、あるいは、すべての角度をとるような水平線だろう――を生み出し、性の制度を、そこから変えていく。
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