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神はなぜ悪を許されるのか

なぜ、この世界には苦しみがあふれているのかを考えたことはありますか。
戦争や飢饉など、病気などにしてもそうです。

人間の目から見て、大いなる不合理があり、悪としか思えないことがあります。
かつて、この難題に一つの答えを提示したヨガの師がいます。

パラマハンサ・ヨガナンダという人物です。

西洋にヨガを伝え、世界的にヨガが広まるきっかけを作った人物です。
そのヨガの本質は神との合一を達成するための技法でした。

彼の講義集をまとめた本で、そのことに触れています。
「神はなぜ悪を許されるのかーーそして、いかにしてそれを超越するか」
(ヨガナンダ著)

今日は彼の考え方に触れつつ、同時に私なりの答えを話してみましょう。



・そもそも悪は存在するのか

「人々の中には「神は悪を知らない」と言う人もいます。それは、略奪や殺人や病気や貧困など、この地上で絶えず起こっているひどい出来事を、善なる神がなぜ許されるのかを説明できないからです」

「神はなぜ悪を許されるのかーーそして、いかにしてそれを超越するか」
(ヨガナンダ著)

殺人や強盗、あらゆる犯罪から病気の苦しみに至るまで、究極の神が作ったのでしょうか。
それとも、別の存在が作ったのでしょうか。

私たち人間の目には、確かにそれらの行為は「悪」に感じられます。
実に不合理で、苦しみそのものを生み出しているからです。

もし、神が作ったのだとしたら、なぜそんなものを作ったのでしょうか。
そして、神から出たものでないとしたら、一体どうして存在するのでしょうか。

ある人は悪は存在せず、心理的な要因に過ぎないと説明する人がいます。
それに対して、ヨガナンダは悪の存在について聖書を引用して語ります。

「私たちを誘惑に遭わせず、悪からお救いください」
(マタイによる福音書 6:13)

キリストは、悪の存在から救われるように祈っていました。
悪が存在しないとしたら、なぜキリストはこのように祈ったのでしょうか。
確かにキリストは悪が存在することを認めていました。

ヨガナンダは明白に語り上げます。
すべて神が作ったと。

喜びや幸福、笑いだけではなく、悲しみや怒りもすべて神が創造しなければ体験できなかったということです。
憎悪や嫉妬、あらゆる悪感情とされるようなものも神が仕立てて見せました。

なぜ、神はそのようなものを作ったのでしょうか。

神の純白の光線が白いチョークだとしたら、それを見えるようにするためには黒板に描く必要がありました。
光を際立させるものは影であり、闇でした。
悪徳があればこそ、美徳が輝くということです。
苦しみがあればこそ、喜びもわかるというわけです。

創造活動に不可欠な二元性が存在するために必要だったのです。


・悪と善を切り分けるのは容易ならざるもの

人々は死を恐れ、それを忌み嫌い、避けようとします。
死を悪として認識する人もいます。
また死をもたらす病気など、病原菌やウィルスをある種の悪としてみなしてもいます。
ヨガナンダは、もしも肉体的な死が存在しなかったら、人口が延々と増え続けて地球は大混乱に陥るかもしれないとも言います。

このように人間の目から悪とするようなことでも、神の目から見たら悪とは限らないということです。
人間の視点からだけでは厳密にこれが悪で、これが善だと切り分けるのは難しいです。

ヨガナンダはこのことに触れたうえで、神に口論まで仕掛けています。

「主よ、あなたは苦しまれたことがありません。常に完全なお方なので、苦しみがどんなものか知る由もありません。それなのに、あなたはわれわれにこのような試練を課して来られました。そんなことはすべきではありません」

「苦しみ続ける必要などないのだ。わたしはみなに自由意志を与え、悪の代わりに善を選ぶことによってわたしのもとへ戻れるようにしてあるのだから」

「神はなぜ悪を許されるのかーーそして、いかにしてそれを超越するか」
(ヨガナンダ著)

ヨガナンダ曰く、もしも地上のすべてが完全に正しくあったのならば、そこから抜け出して神の元に還りたいと思わないと言います。
不合理としか思えない悪や不幸は、霊的な道を歩む上で親友となるのです。

地上のあらゆるものやこの宇宙の全ては、ある種の神が演出した舞台劇のようなものです。
物語であり、演技です。
それに没入することで、私たちはあらゆる幻想から来る苦しみを受けることになります。
その苦しみが魂の刺激の針となって、苦しみから解放されるための探究が始まります。

ヨガナンダと神との対話で語られた「善」とは幻想から目覚めるための努力であり、神の道を歩むということです。
そうして、あらゆる苦悩から解放されて、神の平安を得ることができます。

ヨガナンダの言葉には深い平安をもたらす力がありました。
なぜ、神が悪を許されているのかを理解することもできました。

その上で、私なりの答えを語りましょう。


・神の平安を得る道

私がよく考えていたのは、どうしたらあらゆる苦しみから解放されるのかということでした。
幼少期の頃、人生のどんなことに取り組んだとしても、その努力は死によって取り上げられると感じていました。

私にとって、人生とは実に不合理でした。
あらゆる不毛な労苦をもたらすものは良いものとは思えませんでした。
どれだけ打ち込んでも必ず無駄になってしまい、それどころか苦悩しかもたらさないもの。
それは悪と呼べないまでも、私にとって善とは言えませんでした。

競争の末に社会的な地位を得たり、財産を築いたり、人から評価されたり。一見すると、人生の成功としか呼べないものを得ている人たちを見ても、何一つ幸福には思えませんでした。

世の中には大きな苦しみの中にいる人がいます。
そういったことは何のためにあるのだろうとも思っていました。
貧困や病気や戦争。あらゆる恐怖と不安をもたらす天変地異など。
果たして、何のためにあるのだろうと感じていました。

私自身、深い苦しみを味わったときに祈っていました。
救いを求めていました。

そうして、苦悩が探すきっかけとなり、味わった困難が自分の心を強くし、その強さで決意を固め、道を歩み、答えを得ることになりました。
私の決意とは地上の何物にも左右されずに、完全に幸福となれるものを見つけようとするものでした。

やがて、真のヨガと出会い、何年も心を込めて行じることで、神の平安の中に達することができました。

私は自らの経験からはっきりと語ることができます。

この宇宙はすべて夢
夢は夢でも、心地が良いだけの夢なら、ずっと続いてほしいと思う
ひどい悪夢なら覚めてほしいと思う
この地上の悪とされるようなことは、人が目覚める最高のきっかけとなっている
それ自体が光明へ導く神の声

さぁ、善と悪はどのような意味があって存在するのでしょう。

宇宙の創造活動という観点から見れば、光だけでは何も描けず、闇があることで陰影を与えて、光を描けるようになります。
人間の霊的成長という観点で見れば、悪が刺激の針となって、人々が善へと目覚めるきっかけとなります。
やがて、究極の善である神を悟ろうという試みが生まれていきます。

つまり、人は本質的に善を志すようにできています。
どんな人でも(悪人とされる方でも)幸福になりたいと思っています。
究極の幸福そのものである神を目指すようにできています。

間違いなく、人生の苦しみは魂を強くします。
それも単なる強がりとはまったく違うものです。

何度も痛い目を見れば見るほどに、その人は善と悪を見分けられるようになります。
真価を見分けられるようになります。
自分を苦しめるだけの悪の手引きから脱出しようとします。

邪気を選ぶか、光明を選ぶのか。
この世の迷妄を選ぶのか。
神の夢から醒めることを選ぶのか。

常に私たちに呼びかける声として、善と悪とのイリージョンがこの宇宙夢の中で繰り広げられています。

・究極の神の視点には善悪はない

確かにこの宇宙においては、善や悪としか思えないことがあります。
よくよく見分ければ、地上世界には善悪が存在しています。

しかし、神の視点にまで達すると、まったく景色が変わってきます。
どうぞ、このことを慎重に理解していただきたいです。
物事は白か黒かで完全に分けられず、二重性を持っています。
量子は「粒であり、波である」という二重性を持っているようにです。

善悪を超越した神意識の視点があるということです。

この宇宙では善悪という二元性のドラマがありながら、神の超越的な視点ではまったく異なる見え方をします。

深い深い瞑想の中で、私は神の究極の超認識の中に入っていきました。
無限の光の中に入ると、純白の光がありました。
そこには善と悪は存在せず、究極の平安がありました。

その光の中から、あらゆる色合いの光線が出ていくと、この宇宙という映画(幻想)が映し出されるのがわかりました。
神は至福の境地にありながら、同時に宇宙映画を夢見ているのです。
ただし、人間の視点と違うのは、それが映画であり、実際の出来事ではないと完全に悟っています。

確かにこの宇宙では神の光によって映画が上映され、主人公や脇役、悪役に分けられ、色々な演技があります。
悪がいることで、善が引き立って見えます。

さて、私たちはその映画館の中に座っている観客でもあります。
目覚めた人は、これが映画だとわかっているので、映画上のどんな出来事を見ても、笑い飛ばすことができます。
しかし、子どもに目を移すと、それが本当の出来事だと思って、恐怖したり、悪役を憎悪したりしています。
映画の中で人が死ぬと、本当に死んだとさえ思っています。

神に目覚めた人は映画の中で誰かが死んでも、その人は死んでおらず、生きていることを知っています。
悪役もまた演じてもらっているだけであり、本当に悪い人だとも思っていません。

この視点の違いにあります。

つまり、若い魂にとって、この宇宙は現実のように見えます。
霊的に眠っている人には本当に存在しているように見えています。
そして、悪役と善役は本当に存在しているようにも感じられます。

ところが、神の視点に達した人にとって、それらはすべて演技(幻)だとわかっているのです。
ですから、目覚めた人の視点は善悪を超越しています。
映画でどのようなことが起きても深刻に考えずに、すずしげに楽しめる観客であれるのはそのためです。

さぁ、このことを踏まえて、神は何を望んでおられるのでしょう。


・神は目覚めてほしいと思っています

子どものように宇宙映画を真に受けて、映画の中の一つ一つのシーンに苦しんでほしいとは思っていません。
そうではなく、神の視点と同じ境地に達して、この宇宙映画を楽しんでほしいと思っています。

自分の意識を神に合わせれば、神の平安がなだれ込んできます。
純白の光の中で、善と悪のドラマが幕を閉じ、すべてが一つにある無限の光を悟ることができます。

その人はあらゆる悪夢から醒めて、喜びの中で生きます。
この世にいながら、それは可能です。
そして、この世という映画を見ても、神の真実を知っているので微笑ましく思うのです。

私は真のヨガを行じることで、かつてヨガナンダが語ったことがわかるようになりました。
自分の意識を神意識に合わせることで、あらゆる苦しみが溶けていきました。
幻想から覚めるからこそ、苦しみが溶けます。
神の真実の光によって、それは可能です。

困難がやってきたときや神と心を交わしたいとき。
私は頭の中のチャクラの中枢と、みぞおちの裏側の神意識の十字に心を合わせます。
至福のエネルギーが流れ込んできて、不安や恐怖が溶け失せていきます。
無限の光に魂が溶け込んで、あらゆる苦しみは存在しなかったという具合になります。

神の平安に満たされて、この宇宙という朝夢が明けます。

これは聖なるヨガや瞑想を通して、誰にでも可能なことなのです。
どんな人でも神に心を合わせれば、神の平安を得ることができます。

幻想に飲まれて苦しむか。
幻想から覚めて、神の至福を得るか。
私たちはいつでも選択することができます。

私が生きている限り、人々の助けになろうと思うなら、真のヨガを教え続けることでしょう。
真のヨガを行じることで、人々があらゆる苦しみから解放されることを確信しているからです。

本来の聖なるヨガを教わるような幸運に恵まれたら日々行じてください。
この宇宙夢から醒めるために。

どうか、日常に振り回されませんように。
邪気の道がそこら中にあって、あなたを呼んでも連れていかれませんように。
あなたを取り込もうとする幻想の作用(欲望や感情を刺激するもの)は、あなたを苦しめることがあっても救うことはありません。

私の言葉は耳をつんざくように聞こえても、神の声として伝えています。
一緒にこの宇宙夢から醒めて、神の至福の境地に至れますように。
ただ、それだけの真意を持って語っています

やがて、至福の境地から、この宇宙夢を見たらどこにも善と悪との衝突はないことに気づくでしょう。
それらは協調し合っているようにさえ見えることでしょう。

神の絶妙なる演技が繰り広げられているのです。
あの人も神。この人も神。
苦悩する人の中にも喜ぶ人の中にも神はいます。

無限の神がこんなにも面白い有限のごとき演技をされていることに微笑みたくなります。

神の境地に達すれば、苦悩はない

ヨガを通して、私が心底から達した理解です。

神に心を合わせようという試みが必ず道を開きます。
道が開けば光が来ます。
光が来れば、心は平安に満たされます。


私は聖なるヨガを通して、神に至る具体的な技法をお伝えしていきます。

人には自由意志があって、どんな選択もできます。
人生のあらゆる経験と苦悩を通して、真価を見極められるようになりましょう。
それは幾多の転生をかけた学びになるかもしれません。

心が石壁から、豊かで柔らかい土壌となったときに、道が始まります。
その人の前に師は現れます。
そのときこそ、本当に大切なことに気づいて、歩めるようになることでしょう。
その道の途中で挫折する人もいれば、歩み切る人もいることでしょう。

見つけたものが真実のものならば、心に刻んで歩み切ることです。
得ても見失えば、また見つけるのに数転生かかるものだから。

この宇宙という映画において、できれば悪役ではなく、美徳を備えた善なる役でありたいものですね。
そうして、神の光に満たされて至福の中を歩んでいきましょう。

私は神の境地にどうすれば至ることができるのかを喜んで教え続けます。
素直に求める人に、ヨガを通して具体的な技法を日々伝えております。

縁ある人は神が連れてきます。縁なき人は神が連れ去っていきます。
来た人も祝福し、旅立つ人も祝福しましょう。