『笹の舟で海を渡る』 角田光代 感想
終戦から10年、主人公・左織(さおり)は22歳の時、銀座で女に声をかけられる。風美子(ふみこ)と名乗る女は、左織と疎開先が一緒だったという。風美子は、あの時皆でいじめた女の子?「仕返し」のために現れたのか。欲しいものは何でも手に入れるという風美子はやがて左織の「家族」となり、その存在が左織の日常をおびやかし始める。うしろめたい記憶に縛られたまま手に入れた「幸福な人生」の結末は――。激動の戦後を生き抜いた女たちの〈人生の真実〉に迫る角田文学の最新長編。あの時代を生きたすべての日本人に贈る感動大作!(Amazonより)
『笹の舟で…』は複合的な読み方ができる小説と感じる。例えば風美子の話は果たして真実なのか、というミステリぽい見方もできるし、母親からの愛を実感できず、現代的な叔母になつき、居場所を求めて日本を飛び出す長女百々子の視点に立ってもいいだろう。幼い少女のときに戦争になり、それを拒みようもないまま、大きな理不尽に晒された佐織の理不尽さを読んでもいい。学校に行かなくなった百々子に自分は戦時中で学校にいけなかったと言う佐織。そして、彼女の述懐は「百々子に頑張れと言いたかったのではなくて、よく頑張ったと言われたかったのかもしれないと、子供のように思う」と続く。戦争という理不尽に押し潰され、記憶の中に押し詰めたはずのその未消化を、娘にむき出し、そしてその娘から軽蔑と不信が帰ってくる、女性の姿。人のあり様。
因果応報ということが、現実にそうか(たとえば疎開先の子供たちが風美子をいじめた罪は、後年彼ら自身に跳ね返ってくるのか)というのがいちおう表面的な問題としてでてくるのだけれど、それはどこか薄ぺらい。それはかつて風美子をいじめた女性を心の中で譏る佐織自身が、実際は傍観者であり、共犯の立場にいかねないことをどこかで棚にあげているからだ。そのような「罪の重さ」の比較自体に意味はあまりなく、過ぎたことに罪悪や、正当性を見出そうとしても、結局は、できない、それは徒労であり、そして何かむだである、ということが、作品の端々に感じられる。戦後から平成という時代そのものが「過去を忘れようと」動いているということもある。結局のところ記憶というものは、無意識であれ意識的であれ隠蔽されたり捏造されたり、薄れたり、改竄されたり封印されたり、そしていずれは人とともに失くなっていくのだし、ひとつひとつ、ひとつひとつの軽率や無智や咎を、悪口や暴力や行き違いや忘却や反感や嫌悪を、いじめを、いびりを、裁く能力をもつなまみの人間な結局のところ居ない。それは男というよりかは無数の女たちの歴史といった方が当たっているように思う。嫁姑の歴史、母娘の歴史、女友達、そのような間柄で繰り返されてきて繰り返されていく経験。日常の皮肉、誹り、当てつけ、折り合えなさ。本作では、といういうよりか角田光代の小説では、そのような女たちの有様が生々しく描かれる。彼女たちは弱く、怯懦で、人らしく濁り、生きている。人の生、家庭という営み自体が「笹の舟で海を渡る」ような営為であり、大いなる理不尽、変化、理解し合えなさは常に押し寄せ、舟は難破せず耐えているのがやっとという有様なのだ。皮膚を持ったにんげんは、きっと大半がそのように生きるということが感ぜられてくる。強くも賢くも尊くも特別でもない人間。断罪も信念もなく、通底のように響いてくるのが夫の温男の言葉である。「何ものにもなれない人間の方が圧倒的に多い。何ものにもなれないことは、べつに悪いことじゃない。力もないのに何ものかになろうかとあがく方がみっともない」。
娘の百々子は、アメリカに独断で留学を決めて家を発つ。その門出で自分に向かって軽蔑をあらわにし、母親の生き方を否定する百々子。
「あなたみたいな生き方はまっぴら。なんにも逆らわないで、抗わないで、自分の頭で考えることもしないで、与えられたものをただ受け入れて、それでいて、うまくいかないと全部他人のせいにする」(位置No.4539)。それに佐織は心の中で反発する。
「人生も親も自分で選べると思っているの? ふざけるんじゃない。そんなことができるはずがない。何を言っているの。何に逆らって何に抗うというの? どうして何でも自分でできると思う、なんでも手に入ると思うの?」(位置No. 4558)。それは旧時代の中で生き、戦争という理不尽に否応なく押し流され、何も知らず何も知らされずに、ただ時という海に「流され」てきた、弱い舟人の持つ世界であって価値観だ。「古いのかもしれない、でも、断じて間違いではない。だから諦めるしか仕方がない。みんな好きなように生きればいい。」(位置No.5218)
温夫も割と謎のままなのだが気にならざるを得ない人物でもある。静まり返った会話のない家庭で育ち、青山文化大学の文学教授を勤め、平凡な妻を娶り、全共闘時代を経て、小説を挫折して、定職につかない酒浸りの弟は転落死し、文学書の紹介の新書をしたため、娘は国際結婚し、息子が同性愛者であることを受け入れ、妻を残し癌で先立つ。因果応報について尋ねる妻に、「いや、悪も正義も人生に関係はない。違うかね。君、もっと本を読みたまえよ」(位置No.5323)とだけ言葉を投げかける。温和で出すぎたところのない、思慮深い人物だと感じられる。推測できるほどの断片はなげかけつつ、深い思考には立ち入らない人物造形はプロのあえての距離を感じる。
若き日、温夫に嫁ぐ前に彼の実家に訪れた佐織は、その家の「静けさ」に戸惑い、密かに恐れ続けている。けれど「静けさ」は結局どこにもついてくるのだ。結婚し子供を産んでも「静けさ」に囲まれながら、結局は血の繋がらない他人といることが、人間の、どちらかといえば平均寿命の長い女性の、一般的な生となる、空虚をどこかに託ちながら在り続けることを描いている。
佐織は毒親ではない、ないが築いた家や家庭を満足とは感じられなかったし、私のような血の繋がりをあまり信頼できない人間はなんとなくそれに救われる。すべて目まぐるしく移り変わるが、子の節目や葬の折に集まりながら、家族はそれぞれ別の場所で生き、夫や友人、集合住宅の他の住民など、血の繋がらない他人に囲まれて生は過ぎ去る。それは変わらないのだと。少し安堵させられるところがなくもなかった。
それでも、家庭内の瑣末な不和を抱えながら、佐織が辿り着くのはホテルのようなシニア施設であり、表面的には幸福な家族像であり、芸能人で美貌の義姉との友人関係なのだから、やはり、彼女は現代の一般的な基準でいえば、幸福なのだと思う。一応は「軽やかで静か」な老後。夫の残した財産と満額の年金で営む老後が、非常時には同居を申し出る二人の子供を頼れる老後が待っている。
そう、ちらりと仄見える時代への眼差しがこわい。作中で、平成の日本は「忘れたいいやな過去を捨てた」という。世の中は全員で決めごとをして、戦争や敗北、貧困の時代を忘れ、きらびやかで派手な時代を迎えた。そしてそれも過ぎ去った今では、「きらびやかで派手で豊かな時代なんてなかったことにしてしまおう」(位置No.5510)と、「どういうわけか、みんなで決めているのだ」、と佐織は思う。佐織はそうやって「キラキラ」の世界、多様性を指向する世界の中で切り捨てられ抹消される古い一般像ではあるのだろう。しかし、だとしてそれは、正だろうか?過去を喪くした時代というものは本当に一義的に良だろうか?
『笹の舟で…』を読みながら、1993年生まれの私は 平成に入る前まで、日本人は巨きな流れを生きていたのだと感じた。昭和天皇の崩御をうけて不仲の娘にまで電話を掛ける佐織の行動は私には全く意味不明だ。けれど、戦争、高度経済成長、大学紛争、バブル、天皇、という連帯が、マイホーム、家族、という太い潮が昭和では確かに肌のレベルであったのだと気づく。その流れを喪い、過去を喪い、そうやってたどり着くのはどんな時代でどんな未来だろうか。私たちの老後は明らかに、佐織よりも貧しいものになることは確かなのだ。本作の初版は2014年9月で、阪神淡路の震災は書かれていても東日本大震災については扱われていない。その平成をも越えて令和になり、そして今は? なんだかひどく心細いような感覚が残る。
角田光代の小説には全て、人が封印してきた未消化の感情を掻き立てるところがある。もしかしたら彼女は作家として自分の母の物語を書いたのではないかとふと感じる。佐織は平凡な誰にでも心当たりのある生だろうと思う。ある意味で昭和の女性の典型像といってもいいのではないか。それが小説になって書かれたことの意味を思うと、全てすぎ去った時代だということだと気付かされる。この本は『本の雑誌』2014年のベスト1位になったのは多くの人に共通の記憶や経験を呼び起こす力を持っていたからではないだろうか。