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読書感想#26 【ジル・ドゥルーズ】「ベルクソン一八九五−一九四一」「差異について」

 これが何故、あれではなくてこれであるのか、またこれでなければならないのか。哲学はその根拠を与えるものでなければなりません。哲学とは、その対象そのものにぴたりと当てはまる概念、即ち唯一無二の概念を見い出すことに他ならないからです。逆にこの努力をしない限り、私たちは一般概念を代用して、その対象を不動で無差異的な何ものか、という枠組みに押し込めて説明するに甘んじなければなりません。ここでは当然、その対象が同じ類の他のものであるよりもむしろこのものである、という事実が見逃されることになるのはいうまでもありません。

 これを避けるためには、私たちは差異の立場を取らなければなりません。それがあれではなくむしろこれであるということ、他のものではなくこれであるということを成り立たせるのは、物の存在、即ち物の差異に他ならないからです。

 物の差異とは何か、もちろんそれは単に別の物との間の差異ではありません。異なるのは事物でも、また事物の在り方でも、また性格でもないからです。それはいわば傾向です。差異とは傾向なのです。傾向は自己に対して自己のもつ差異であり、この差異を捉えることによって初めて、対象は一般概念から開放されるのです。

 しかしこの差異というのは、実は日常生活に於いてはほぼ完璧に息を潜め、私たちの目には決して映らないように存在しています。なぜならそれは常に混合物として我々に認知されているからです。混合物として私たちの前に現れている限り、私たちはそこに決定的な差異を見い出すことは出来ません。私たちが現実にて差異を発見するためには、先ず混合物を、広い意味でいえば、差異化する観点に立たなければならないのです。

 差異化とは即ち、潜在性が実現される運動のことです。それは現実化し、現動化し、自らを創りだすものの様態です。即ちここから無数なる分岐の系列が生まれるのです。新しい何か、はここから始まります。即ち差異とは畢竟すれば、新しい何ものか、なのです。

 差異哲学とは、差異そのものの存在が新しさとして実現される、差異の実現の哲学に他なりません。そして差異を実現させる意識のあるものだけが、既にあったものに背を向け、それから離れ、それを繰り返さずに、新しいものを作り出すことが出来るのです。この意味において、これは創造の哲学であるということも出来ます。畢竟差異とは、現にある固有なものと、作り出されていく新しいものとを共存させる生命そのものなのです。差異は新しいものであり、新しさそのもの。差異は繰り返しでありながらも一般性と同じではなくして、千回目における期待なのです。

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