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読書感想#32 【ジル・ドゥルーズ】「カントの批判哲学 (『実践理性批判』における諸能力の関係)」

欲求能力における最も理想的な形態は、快苦の感情によっては左右されず、ただ道徳法則にのみ従うような純粋形式です。それは決して、一時の感情都合に流されて揺れ動くようなものではありません。万人が何時なんどきも同様に採用するであろうものでなければならないのです。即ちそれは畢竟、普遍的立法的なものと一致するものでなければならないのです。

普遍的立法は、全ての感情や内容、感性的条件から独立なものに属しています。独立なものとは即ち、自己自身からある状態を創始する能力を持つもののことであって、いわば自由意志の如きものです。この意味において、それはただ現象であるとは考えられません。現象は空間・時間という条件の元に現れるものである以上、常に他の現象の結果であり、各々の原因は先行する原因に結び付くよう条件付けられているからです。これに属するものが普遍的立法足ることは有り得ず、当然それ自身、自由意志であるはずもありません。

自由意志は、感性の自然的条件からは全く独立なものでなければなりません。何者も、この意志の決定に先立つのであってはなりません。そのとき、意志は自由を損なうからです。しかし自由意志とはいっても、そこにはやはり、客観による裏付けがあるのでなければなりません。確かに自由という以上、主観的な赴きがあるかにも感じられますが、真の自由は客観なくしてあり得ないからです。自由意志は普遍的立法との一致を要します。そしてこの自由意志と普遍的立法とを繋ぐのは、他ならぬ実践理性なのです。


実践理性の対象は物自体です。その意味で、私たちは物自体たる問題に突き当たらなければなりません。しかし私たちは物自体たるものについて、何一つ知ることはないのです。それというのも、私たちはこれに関係し得る如何なる直感も持ってはいないからです。しかしだからといって、私たちはそれ自身の実現に全く無頓着であらねばならないという訳でもありません。私たちは実践において、物自体と接するからです。それはどのようにしてかというと、即ち物自体が現象に対して何らかの影響を及ぼし、そして現象界において物自体の理念が実現されるというかたちにおいてであります。


ところで、実践は私たちに何ら拡張をもたらすものではありません。私たちは理性を実践したからといって、以前と同様、物自体について何一つ知ってはいないからです。私たちが認識を形づくることを目標とする限り、物自体はただ類推的にしか規定され得ません。故に私たちはここで如何なる努力を重ねようとも、世界に如何なる価値も付与することは出来ないのです。しかし実践に焦点を当てて、何か実現さるべきものを指示するとき、私たちは物自体の実在性を獲得し、そしてそれが実現されます。


以上より分かることは、私たちは実践そのものに価値を与える、究極目標を設定しなければならないということです。それによって私たちは自己自身を目的自体として規定し、自由な因果性を手にするのです。


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