Remix note 2021【#自己紹介】
自己紹介のnoteが、ずっと定まらずにいました。
ある時は「これ!」と思ってプロフィール欄に固定してみても、しばらくするとすぐに、なんだか違うような気がしてしまって……。
でも、年末に一年分の自分のnoteを日記から創作まですべて読み返した時、そこには、恥ずかしいことも、真面目すぎることも、たくさんたくさん書いてあったのですが、
ようやく「あぁ、この振れ幅が『じぶん』なのかもしれないなぁ」と思えるようになったのです。
ほんとうは、きれいにまとめた方がいいのだと思います。なので、変な話ですが、すべてを読んでいただかなくて全然大丈夫です。もしよろしければ、スワイプしたりスクロールしたりして、あるいはルーレットみたいにして、目にとまったところだけでも読んでいただけたなら、とても嬉しいです。
以下の文章はすべて、2021年のしんきろうのnoteからサンプリング、リミックスしたものになっています。でも、どこを切り取っても『自己紹介』と言えるものになっているなと思います。
ほんの少しでも、楽しんで読んでいただけたなら幸いです。
◯
風にゆれるやわらかなアンテナで、ずっとあなたのことを考えている。
ぼくのことを、あなたは素晴らしいよと言ってくれる、そういう君こそ素晴らしいんだよと、臆面もなく讃えられるようになった。いつからだろう、交流のある人が少なくなるにつれて、もしかしたら君は本当に本当に特別なとっておきの存在なんじゃないのかって、思うようになったし、そのことを、もっと素直に伝えてしまって構わないんじゃないかと思ったんだ。
これからの生きている時間はすべて、じぶんと、自分の大切にしたい人たちのためにある。それだけは、保留しない。
助けてほしいときに
たすけて、は言えないもの
笑ってる その奥にある部屋で
すこし話してみたいなと思った
まだ会ったことのないあなたの、
言葉しか知らないあなたの声を知りたいと、
話ができたら素敵かもしれないと、
またあたらしい漫画の発売日が来るよって瞳を輝かせたりしながら、
それでもちっとも漲らないからだをずるずると引きずりながら、
笑って笑って、
結局、イライラして、
呆れられるのを繰り返して、
愛して、
足りない言葉や気持ちをとかす。
湯船に。
シーツに。
マスクに。
声に。
もうおやすみ。良くなってるよ。わたしは見てたから。頭、撫でてあげたいけれど、でも出来ないから、書いとくわ。
また明日ね、あしたの私。
やっぱり会って話すって、すごいな。なめてた。会うってエネルギーのかたまりだ。これに負けないくらいのもんを、したためなければ。
読んでいる時間が楽しい、とか、心地よいと思えることばを、丁寧に。
きょうは「しない日」にしようと、そう決めた。そうはいっても日々のやらなきゃなことごとはあるけれど、心持ちは「しない日」だ。そう思って、すこしゆったりと、過ごせたら良いなと思っている。
むりに気分を上げようとし過ぎて、千切れるような負荷がかかってた気がします。あららな感じに下がったら、低いままで飛んでみて、やっぱりダメダメで海面に触れたらそのまま潜ればいい。海の味を知って、ああしょっぱいなってまた浮かびたくなったら浮かんだらいい、くらいの感じで。
生きることは、生かされている中で生きていくことは、容易くはないけれど。
大好きな人の新しい歌を聴いて、生きていきます。これからも。
書くのをちょっとだけやめてみた。書くことが、やっぱり好きだと分かった。
かもめ食堂を観終えた時、「物語って、つくりものじゃなくて、手作りなんだ」という感慨があった。
時間をかけて気持ちを傾けられたことばは、ほんとうに栄養そのもの。シーンとしては何でもなさそうなことが書かれていたとしても、素通りできないタフさがあって。ひかってるみたいに感じて、だんだん元気になってきます。
紙に書くっていいな、と
あらためて思っている。
自分のまるっこい字のことも
実はけっこう好きなのだ。
寝る、とか、眠ろう、だとか
思うよりも、ことばとして
横になる、が好きかも、と思う。
寝ることについては、ちょっとお金をかけてます。ふとんも二つあって、広々です。かけ布団や毛布は、2.5人分くらいあって、ぽーんと投げたみたいにして丸まっています。どうせ寝てる間にくちゃくちゃになるのに、どうしてぴっちりメイキングしなくちゃならんのだ? やらん、そんなことは。ふとんがみんなシナモンロールみたいになっていても構わん。むしろかわいい。
「機嫌良く過ごす」ということだけが、今のじぶんの、宝物と言ってもいいものかも知れない。
わたしが宝石だと思うものは、命あるもの、人の気持ちの込められた温もりあるもの、傾けられた優しさがところどころすれ違って、遠く誰かが気づくようなこと、呼び止める叫び声、ただの空と声枯れ、それから……いったいどうやって出来上がってるのか、どうしてこんなに壊れてしまいそうなのか、ほんとうはちっとも分からない、ことごとくすべての出来事。
学べるものは、すぐ側にだって、遠くにだって、もう会えない人にだって、ある。
偉大なもの、素晴らしいものは、こんなにもたくさん作られているのに、それでも自分ひとりの生を安定して下支えするには、足りないのだなと、きっと身勝手に見当違いなことを思っている。
ちょっと弱ってしまっていて、ひとりで楽しみを決められそうにない時は、信頼してる人の声を聴いてみようと思う。その人の、好きなものにも、触れられたなら、と思う。
声に出すと、自分をその文章の声に明け渡すみたいになって、気持ちが良い。文章ごとに、ぜんぜんちがった声になる。
作らないと、何も起こらない、生まれない森や町がある。人がいる。そういうことの端々が、分かるほどに遠のいて、ほんとうに蜃気楼へ、ずっと歩き続けているような気持ちになる。いつも途方もなくて、さびしくて、たのしい。
さみしいのは、きっと変わらない。書けば書くほど、それは和らぎつつ、確かにもなる。それが自分の、書いてしまう、書き続けていく理由なのかもしれない。
だから、よくよくこのさみしいという気持ちとは、ちゃんと付き合っていきたい。内面の伴侶として、大切にしたい。
それはきっと、書くことだけじゃなくて、ひとりでいること、誰かと過ごしていくことの根っこの部分にしみこんで、ささえていくことのように思うから。
コーヒーを飲むときに目を閉じる癖 あなたと共にあるということ
風の音とか、鳥の声とか。
日光に照らされているマンションの、金属製のベランダの柵が温まり、パチンパチンと膨張し、軋みはじけるあかるい音とか。
読むこと。聴くこと。観てること。暮らしからトクトクと入ってくるもの。
スマホを見るときは口角を上げること。
せっかく楽しいことしていても、口角が下がってると、脳とかがつまらんことしてる? って勘違いしちゃうかも知れないから。
世界の、とはまた別の、たったひとりの環境問題に向き合いながら、打ちひしがれや憤りのエネルギーをつぎつぎ焼べて、ひとつ調べて何か知ったり、ひとつ物を書いたりしてやりたい。
ちゃんと「分かる」には、粘らなくっちゃいけない。少なくとも、わたしにとっては、そう。
流さないで粘るのは、たいへん。だけど「分かる」のは、やっぱりすごくうれしい。その「うれしい!」の気持ちが消えないで、ちゃくちゃくと蓄積されていて、わたしの見えない背景をこっそり形作ってくれているんだと、そう思えるくらいに。
わたしのことの一部だけを知ってる人が、わたしのことを変えようとか良くしようとしてくることがある。「いったいどうしたの?」と思うけれど、知ってる。わたしも変化を迫ってた。もう周りにはいない、きっともう会えない人たちに。よく知りもしないのにね。
ことばについてはもう少し考えてることがあって、なんというかもうちょっと「さらさら」したいと思っている。その方が、読んだ時に、読んだ人の自由へ、ひらけたことばになる気がする。ドライじゃなくて、さらさら。なんとなくだけど、そう思う。
三人称の小説を、と意識したのも、さらさらと関係あるかもしれない。それに三人称やさらさらのことは、小説や創作についてのことだけじゃなくて、生身のぼくが生きていく、そのためにも大きく力添えをしてくれそうな予感がしてる。
一人称で過ごすには、あまりにも腰が重くなるようなことが多い。「しんきろうは、今、だるそう」とか、「しんきろうは、目を開けて、また閉じた」みたいな感覚の方が、いろいろと良いような気がする。うまく言えないけれど。
いっそのこと、大真面目とへんてこの反復横跳び、別名「わたし」選手権で、一番になってしまえばいいんだ。傘を差さずに雨を躱すみたいな、あり得ないことを起こす、それを目指して。
「あなた遊びがないとしんじゃう人だからねぇ」って友だちが占ってくれたことがあった。これはたぶん本当にそうなんだと思う。真剣になり過ぎそうになると懐から取り出す、お守りみたいなことば。
ご飯を食べて、おいしかったら「おいしかったー」って素直に言うとか。
ご飯の後に、音楽を聞きながら、かるく足踏みしたりして、食べたものをからだに行き渡らせるとか。
「あったかい、気持ち良い……」と声に出してお風呂に入るとか。
ふとんに横になるときに、「今日はもうお腹いっぱいだー」とつぶやいてみるとか。頭が考えごとでみちみちしてるはずなのに、満腹・満足な雰囲気がちょっとだけ漂うから、なんだか良くて。
こういうことは、心がけないとみんなしないで日々が流れていってしまうことなんだと思う。気持ちの温度が失われないように、これからも良いなと思ったら試していきたい。
もしもグミのような文章を書けたなら、きっと嬉しい。嬉しくって、その日はとても良く眠れると思う。
でも、まあ……きっと、あまり深く考え過ぎないほうがいいのかもしれない。ぼくがやっていくのは、少しでも良いものを書くことだから。読んでよかったと思ってもらえるような何かを、ちゃんと作っていくことだから。
それには、おいしいものをたくさん食べよう。よく噛むようにして味わって。それからたくさんのものを読んだり、音楽にもひたったりしよう。欲張りかな。でも、欲張りな気持ちもそれはそれで、ちゃんと持って過ごしていたいんだ。「実りありますように」って、すくすくと祈りながら。
背中を押すよりもささやかで、手を当てず触れずにさするような、あたたかな傾きを感じつつ、これからも、書いていきたいと思います。
ぼくはたぶん、いろんな場所で、いろんな出来事にあうたびに、まず、自分の気持ちに耳を傾けて、それがどんな気持ちであっても、ひとまずは認めてあげなくちゃいけないんだなって、ようやく気づいたんだと思います。
それが嬉しいことでも、悲しいことでも、やりたいことでもやりたくないことでも、おんなじ。それを一番大切にしなくちゃいけない……というか、やることは、ぼくにできることはたったひとつ、それだったのかもって、やっと、分かったのかもしれないです。
あんまり元気ではないけれど、あたたかい物事とは、寄り添える。
いわゆる健康とは距離を置いているかもしれない。けれど、誰かを想ったり、こころを配って過ごすことはできる。
ほんとうに何かが良くなっていくのには、きっと、ほんとうに時間がかかるものだから。
好きなこと。
お礼を言うのが好きだ。ちゃんと素直に謝ることも、どちらかと言えば、好きな方だと思う。それからわたしは、じぶんの一歩先だけをまじまじと見つめて、慎重に進んでは「ようし……一歩進んだ。上出来上出来、さ、お茶でも飲もう」という感じでやっていくのが、たぶん、大好きなのだ。
「うまくいかなさ」を楽しみたい。
「最高」じゃなくて、「最新」のものを。
抱きしめたくなるようなチャーミングを、俺は書く!
ぜんぜん無事じゃないけれど、生きようと思う。作ろうと思う。弱っちくて、格好悪くっても、この人生が先細りだったかどうか、それは、わたしが決める。
◯
読んでいただき、ありがとうございました!