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恩師のエッセイ

 昨年末、私はnoteに大学時代の恩師についてのエッセイを書いた。


 noteにこのエッセイを掲載後、私は、恩師が大学を退任された後に北海道の月間総合誌にエッセイを連載していたこと、そのエッセイが書籍にまとめられていることを知った。
 1997年6月号から2003年7月号までの連載が、4冊の文庫本になっているという。
 すでに年数も経っており、Amazon等では残念ながら売り切れ・取り寄せ不可となっていた。しかし、諦めきれずにさらに調べてみたところ、出版元にはまだ在庫があり、通販でも購入可能だった。
 すぐにメールを送り購入を申し込んだ。
 代金を振り込んで一週間ほどで、文庫本が手元に届いた。


 先のエッセイに書いた恩師Y先生とは、薮禎子先生。
 かつて私が学んだ藤女子大学文学部国文学科の教授であり、作家 島崎藤村や樋口一葉、北村透谷の研究者としてその名を広く知られた方である。

 薮先生は、2008年10月に鬼籍に入られていた。
 このエッセイ集が出版されたのは、先生が亡くなられた翌年の2009年。
 巻末には、あとがきとしてご子息の言葉があった。

 お亡くなりになられたことは、知っていた。
 しかし、私がそれを知ったのは、大学の同窓会の会報のお悔やみ欄でだった。すでに葬儀は終わっていた。忙しさに甘え、大学時代の友人達との交流も途絶えていたことを悔いても遅かった。
 書籍を注文するメールを送りながら、満足に御礼も言えぬままだったことを恥じる思いと後悔とが、あらためて込み上げた。


 手元に届いた4冊の本は、ワンコイン文庫というシリーズで出版されたものだった。1冊500円ゆえに装丁も簡略化され、裏表紙には広告が入っていた。
 しかし、植物の写真を用いた表紙は四季折々の自然を愛した先生にふさわしく、また広告は母校のものでもあった。
 出版された方々の思いが伝わってきた。

 私は、お詫びするような苦い思いで手に取った。
 しかし、ページを捲ると、時が遡るような気がした。
 そこにあったのは、学生時代の講義そのままの、厳しくも柔らかで美しい言葉だった。

 エッセイ集の第一巻冒頭に綴られていたのは、今から30年ほど前、私が学生時代の出来事だった。
 あれは私が大学2年か、あるいは3年の年だったろうか。
 その春先から、薮先生は体調を崩されていた。話すのもお辛そうな様子の日が長く続いていた。
 大型連休が明けて最初の講義か、あるいはゼミだったろうか。
 それまで先生は、ご自身の体調不良について触れることは無かった。学生の側から触れるのも憚られた。けれど、どのような話題からだったか記憶が定かではないのだが、その日の講義の終わり、先生はご自身の体調と、それが回復され嗅覚が戻られた嬉しさを話してくださった。
 ずっと体調を崩されていた先生はなかなか嗅覚が戻らず、そのせいで味覚も無いような日常を送られていたという。
 けれどその日、ライラックの花の香りを感じ、それで嗅覚が戻ったことに気付いたという。
 それを話す先生の表情は、本当に嬉しそうな穏やかな笑顔だった。
 ライラックのことを、先生はリラの花と呼んだ。古くからのその呼び名で語られる花の香りは、私が感じるそれよりもずっと豊かで、生き生きとして、高貴なもののように思えた。その言葉の響きと先生の穏やかな笑顔は、今も深く印象に残っている。
 私が藪先生のことを思い出す時にまず脳裏に浮かぶのは、この時のリラの花の香りのエピソードと、先にnoteにも書いた「文学部は人を育てる場」という言葉である。その二つの出来事のうちの一つが、エッセイ集の冒頭には美しい言葉で綴られていた。
 胸が熱くなった。
 人の命には限りがあるが、言葉は、時を遡ることが出来る。あらためて、そう思った。




 エッセイの題材は、文学のみならず多岐に渡っていた。変わりゆく街や移り変わる季節のこと。旅の思い出。
 中には、当時の世相やマスメディアへの厳しい言葉もあった。
 確かに、地元の北海道新聞をはじめとした様々なメディアで執筆されていた教授もいた中、当時の藪先生は、マスメディアと距離を置いていた印象があった。
 文学評論の書籍は、出版されていた。
 しかし、他の教授がそうされていたように、出版に伴ってのインタビュー等でメディアに出演されるというようなことを、藪先生はほとんどなさっていなかったように記憶している。


 強く印象に残っている出来事がある。


 私が大学に在籍していた4年間は、世界的にも激動の時代だった。
 1990年8月、湾岸戦争が始まった。翌1991年、日本政府がイラクを攻撃する多国籍軍への90億ドルもの支援や自衛隊のイラク派遣を決定すると、文学者の柄谷行人氏らが発起人となって「湾岸戦争に反対する文学者声明」を発表した。北海道の小さな私立大学だった母校でも、文学部国文学科の複数の教授の呼びかけによりこの声明に関連する討論集会が開催されていた。
 私も、学内で開催されたその討論集会に参加した。

 (その時の出来事は、いつかまた別の機会に書きたいと思う。私自身がそれまではある意味で尊敬と憧れの対象としていたマスメディアに対して、初めて不信感を抱くことになったのがこの日の出来事だった。)

 しかし、藪先生はその討論集会には参加されなかった。


 学生時代、私は先生から政治的な思想信条を押し付けるような発言を聞いた記憶は無い。
 戦争反対の思いは、常に口にされていた先生だった。それは、戦中、戦後のご自身の経験からの揺るぎない思いだった筈である。
 そんな先生が、あの討論集会には参加されなかった。
 もちろん、戦争に対しても政府に対しても、様々な思いがあったことだろうと思う。
 しかし、薮先生が学生に対して声高に叫ぶことは無かった。まして、声を上げ叫びなさいと呼び掛けるようなことは、決してされなかった。
 あの時代、あの状況においても、学びの場を政治の場とすることを良しとはされなかった。

 エッセイ集には、当時の政治家やそれを報じるマスメディアへの厳しい言葉とともに、そのような状況に抗議の声をあげる若者たちが出てくることを願うような言葉もあった。
 けれど、それすらも、立ち上がれ・声を上げろと強く呼びかけるような言葉ではなかった。
 むしろ、祈りであり、励ましだった。
 いくつものエッセイに、若い世代へのエールのように感じられる言葉が綴られていた。


 そんな先生の姿勢に、あらためて敬意と感謝の念を抱いた。

ある日の仙台市内の夕焼け空



 私は今、故郷から遠く離れた街で、文学とは無縁の仕事についている。
 けれど、今の自分があるのは学生時代のあの日々のおかげだと、今こうして振り返ってあらためて思う。


 直接の恩返しは、もう叶わない。
 けれど、学んだことを語り継ぎ、思いを伝えてゆくという形の恩返しに、期限は無い。


 私は、生きて、仕事と向き合って、そして言葉を紡ぐことにも向き合い続けて行こうと思う。



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