子供時間と、ことばの壁
大人になるにつれて一年が短く感じると、世間ではよく言います。つい先日あけましておめでとうと言ったと思ったら、あれ?もうクリスマス?とか、こないだ会ったよね!と自分より若い知人に同意を求めたら、え?2年前ってこないだなんですか?と言われたり。若ければ若いほど、1年は長く、歳を重ねれば重ねるほど、10年があっという間になったりするのは何故なのか。
楽しい時はあっという間に過ぎると言うし、あっという間の一年だった、とはある意味充実した時間だったのかもしれません。でも、あまりにも毎年毎年一年が短く感じると、ふと不思議に思いませんか。何で、こんなに体感時間が大人になるにつれて変化していくのか、と。24時間365日は、全ての人に平等にあるはずなのに。
子供の時、一学期が途方もなく長く感じ、夏休みが永遠のように感じたあの多幸感、台風が来たら暴風警報を待ち侘びて、よっしゃ!学校休み!と決まった日の手持ち無沙汰な一日の長さ、あれは何だったのか。小学生、中学生、高校生、と成長するに連れて、少しずつ体感時間が変化していって、それでも、それを感じるほどには脳みその処理能力が追いついていないのか、目の前の日常や人間関係、自分自身のコントロールで精一杯だったりして、受験が終わり大学生になって、少し過去を振り返る余裕が出来始め、ふと後ろを振り返ってみたら、あれ?一年ってこんなに短かったっけ?と初めて感じ、大人になった気がした、そんな経験ありませんか。私はあります。だから、こんな記事書いてます。そりゃそうだ。
この感覚の差は何なのか。
そんな疑問を感じた大学生の頃、たまたま新聞のコラムで『大人時間子供時間』というタイトルで、正にその事について書かれた記事がありました。そこには、子供は毎日初めての事だらけで、毎日感動する、情動を伴う記憶は奥行きがあり、時間が長く感じる、だから1年が途方もない時間のように感じるのだと、書かれていました。時計が刻む客観的な横軸の時間をギリシャ語で『クロノス』といい、考えたり本を読んだりして主観的に感じる縦軸の時間を『カイロス』といい、縦軸の時間が充実していると、体感的時間が長くなるのだ、とも書かれており、子供は自分の主観的な時間の中に生きているから、横軸にプラス縦軸で、一日が長く感じるのだと。
人間の体感時間について一定の法則が発案されたのは、19世紀に入ってからだそうです。フランスの哲学者であるポール・ジャネーが研究し、その甥である心理学者ピエール・ジャネーが著述したことから「ジャネーの法則」と呼ばれているとか。この法則の中では、人間の体感時間はそれまで生きてきた年齢に反比例すると考えられているのだそうです。例えば、30歳の人間にとって、1年間というのはそれまで生きてきた30年のうちの1年ですから1/30。人生の中のわずか3%少々。ところが、5歳の子供にとっての1年間とは、5年間のうちの1年で1/5。人生のうちの20%以上を占めています。つまり、同じ「1年」「1日」「1時間」であっても、5歳の子供の体感時間は、大人の6倍以上の長さであるということになります。
また、別の機会に何かのテレビ番組(多分きっとNHK)で、新しい発見や、感動、驚き、笑い、何らかの感情と結びついた記憶は、長期記憶となり右脳に感情ごと記録され、赤ちゃんがゼロから言語を習得するような、ものすごい膨大な容量の記憶を長期間持ち続けられる、と言っていました。確か、右脳教育の番組だったと思います。右脳を開くことが、記憶力の天才を生み出すキーワードだとか何とか。前述の縦の時間が増えるという体感時間感覚にも右脳の働きが大きく関わっていそうだと、その時感じました。
という事はつまり、当たり前の事を当たり前と思わず、常に初めての気持ちで物事に向き合って、子供のような集中力で、考え、発見し、全力で感動し、喜怒哀楽に結びつけて右脳を活性化させながら生きて、その感情に結びついたたくさんの長期記憶を右脳に満載にしていけば、1年は長く濃い物となり、10年があっという間なんて現象は起きない、という事なのか⁉︎と、大学生の私は思いました。感動だけでなく、嫌な事とか悲しみ苦しみを感じている時、早く過ぎ去ってくれと思う時こそ、時間が途方もなく長く感じたり、後から振り返っても、他のサラリとすぎていった時間に比べて、記憶が濃く感じたりするのも、ソレか!と膝を打ちました。感情に結びついた時間は縦に伸びる時間、想いが強ければ強いほど、体感時間は横軸に対してパンパンに膨れ上がってゆき、1ヶ月が1年のように感じるというわけです。だから、強いストレスを感じると急激に歳をとったような感覚になったり、白髪が増えたりするのかもしれないなと、思いました。
経験値から『コレは知ってる、アレも知ってる、ああ、きっとこういう事』とサラッと思い込み、脳が情報の処理を効率化し、ある意味怠け、短期記憶のフォルダへ合理的に圧縮してぶち込んで、いつのまにか忘れて行き、その目の前で起きている現象や経験をコンパクトにまとめすぎてしまうと、1年がドラマのない、非感動的なのっぺりした横軸の時間のみになってしまい、体感時間が、『あっという間だ』と、感じるようになる、という事なのでは、、と、まだまだ子供に毛が生えただけで、物事を知ったつもりになりがちな大学生は、その時大いに戦慄を覚えたのであります。
目の前の物事の全てを疑え、という懐疑主義なる哲学思想がありますが、その哲学を愛した思想家達は、もしかしたら、いちいち立ち止まって考えて、新しい発見や再構築に出会い、一年が子供のように長かったのかもしれません。哲学の起こりは古代ギリシャ。奴隷に働かせて時間を持て余した特権階級に生まれた高尚な暇つぶしが、哲学だったとか。前述の新聞コラムの縦軸横軸カイロスクロノスの発想も、ギリシャ哲学の産物。日常の雑事に追われ、仕事のための必要最低限の思考をマニュアル化し、いちいち立ち止まってる暇はない!と、忙しくあくせく働かなくてはいけない現実的なカルマから解放されていなくては務まらないのが、哲学者。大いに考え、悩み、試行錯誤し、人を科学し、人の世を科学し、分析し、解釈し、それぞれの結論に至る事を、仕事にし、縦軸の時間に生きているのが、哲学者。哲学者=縦軸フルスロットル、という事はつまり、ある意味子どもはみんな哲学者なのかもしれません。
いちいち立ち止まって考えたり、感情的にならず、時は金なりと頭の中を合理化する事で、効率よく何かを進めてゆく、それは、大人の知恵でもあり、仕事をする上でも必要なスキルです。とはいえ、思い込みや根拠のない独断、決めつけは、脳の合理的怠慢。怠慢のツケは必ず自身に返ってきます。精神的な贅肉がついて、思考スピードが落ちたり、誰かの考えに身を任せ思考停止状態に陥って自らの脳で考えなくなったり、精神的体力が減退し、忍耐強く物事を見守る思慮深さを失ったり、どこかに追いやったり、押し込めたりした感情は、行き場を求めて変なところに歪みやほころびを作ります。即物的になったり、変なところでキレたり、浅はかさを見破られ恥をかいたり、共感能力不足で友達や恋人や家族に嫌われたり、、ああ恐ろしい。そんな大人にはなりたくない、と青い春に生きる大学生は思いました。
子供時間、大人時間、どちらも大事なわけで、頭の中に、大人モード、子供モードのスイッチを作って、いつでもパチンパチン切り替えができれば、とても便利だなと、その時思いました。仕事がバリバリできる大人にもなりたいし、子供の集中力も持って豊かで長い人生も謳歌したい、何事もバランスが大事です。
生活や仕事に追われていない贅沢な立場を与えられている学生のうちに、なるべく目の前の事に向き合い、思い込みを排し、常に物事を初めての事のように新鮮にとらえる努力をし、新しい発見を喜び、考え、小さな事にも感動できるよう、目の前の事を、自分自身を、周りの世界を見つめ、さらに再度見落とし忘れ物がないかダブルチェックする事に努めて来ました。思い込みや偏見や独断に気づいたら、いかんいかん、勿体無い、せっかく出会えた事象を丁寧に扱わなければ、時間が巻きになってしまう、人生損してる!と、そんな傍目(大人モード的視点)から見たら、非効率的で面倒な、何の徳があるのか分からない努力をコツコツして参りました。と、同時に客観的な立場で検証したり、分析したり、改善したり、スピード感を持って世の中を渡り歩く努力もしました。
そして、ついにある日、モード切り替えスイッチを開発したのです。脳内に。
ちなみに、大学は芸大で、美術専攻でした。美術とデザインの違いは、例えば『絵』というものに対するベクトルの違いで、ザックリ言うと、自分自身に向き合うのが美術、他者に向き合うのがデザイン、漫画家を目指していた私には、美術脳で主観的に掘り下げる思考と、デザイン脳で客観的に他者に伝える視点を持つ事の両方が必要でした。勿論、漫画に限らず、プロフェッショナルとして作家をやっていくには、必須の能力です。作家としての熱い想いを込めながら、作品のクオリティーをチェックし、第三者に伝わるものに仕上げる、つまり、切り替えスイッチが必須です。大人モード=横軸の客観的な時間=デザイン脳、子供モード=縦軸の主観的な時間=美術脳だと、私は、ある日気づいたのです。作品創りの場面だけではなく、日常生活にもそれを応用。それはもうパチンパチン。スイッチが摩耗するんではないかという勢いで、それはそれは怒涛のパッチンをしながら生きて参りました。
時間を現在に戻して、今の私にとっての10年は、どんな感覚なのか。すばり10年は、30年くらいの途方もない感覚です。何なら、去年の今ごろ妊婦だったとか、遥か彼方の記憶(それはただの妊娠健忘)、2年前コロナ禍で仕事ができずに嘆いていた日々など、もう7、8年前のような感覚、ましてやガン闘病記とか、振り返って自分の事とは思えないくらい大昔のような感覚です。たまに過去の記事を読み返してみるのですが、本当にnoteを続けて来て良かったと思います。その時、その時の気持ちを綴り残し、記憶の中の細かいディテールを振りかえれる場所を作っておいて良かった。過去の自分に感謝!とにかく1年が長くて濃くて重いので、その瞬間の心象風景が、中1が小1の頃の自分を振り返るがごとく、とても遠くの事ととして感じられるのです。Carol King様が脳内でIt"s so farway〜と歌っています。いい歌です。彼女の哲学、思考、感性、作品を生み出すために費やされた全ての縦軸時間にも敬意を表したい。
子供時間で生きようと、生き方を見直して、当たり前を疑い、わざわざ首を突っ込み、いちいちゼロから考え、集中し、感動し、入れ込み、気が済むまでやり尽くし、結果、深く関わってしまったばっかりに、時に人様から嫌われたり、虐められたり、標的にされたりもしがちです。矢面で全身に矢が刺さった弁慶よろしく、満身創痍しながらも愚直にほふく前進、感情をフルオープンで、全力で喜怒哀楽して、サバイバル、つまり他人に迷惑ばかりかけて生きて参りました。人の3倍無駄に寄り道し、間違え、失敗し、絶望しても尚、自分の思い込みと感情と闘い続け、考え、学び、心を劣化させない努力をする事で、子供時間(縦軸時間)を死守し、一度きりの人生を人の3倍味わいたい、そしてそれがいつか肥やしとなり、他人を、自分を深く見つめ、より深く理解できる事に繋がると信じて生きて来ました。そして同時に、そんな自分の様子を俯瞰で見つめ、同じくらいの熱量で、客観的視点を考え、人間関係、仕事効率、優先順位の精査、大人モード全開の時間も鍛え大切にしてきたつもりです。
さて、ここからが本題。(前置きが長い)
そんな濃く長い体感時間の人生の中で、考えても考えても答えが出ない1番の難題は、『ことば』というものの難しさ。その壁は乗り換えられる日は来ないのではないかと日々思います。本当の心は、他人には中々伝わらないし、他人の真意は中々汲み取る事ができない。すれ違いたくない、相互理解を深めたい、と人生かけて努力してきても、全然足りない。でも諦めきれない。だからこそ、今もこうして言葉を綴り続けているのだと思います。当たり前を当たり前と流さず、言葉のニュアンス、行間、相手の真意を探し、自分の真意を相手に伝えるためには何が必要で、何が不要なのか。これは、未だブラックボックス。言葉が足りなくて誤解を放置してしまって後から手痛いしっぺ返しをくらったり、余計なことを言ったばっかりに、解けないほどこじれてしまったり。足し算と引き算のバランス、非言語的コミュニケーションの大切さ、観察力、洞察力、分析力、まだまだ足りない事だらけです。
同じ言葉でも、受け取り側のイメージするニュアンスと、発信側のそれが違えば、どこまでも平行線。どうしたら伝わるのか。歌で愛を伝えても、聴いた人に心の準備や、愛を受け止める気持ちの下地がなければ、キモい、ウザいと思われるだけです。逆に、あゝお腹空いたなぁと思いながら淡々と歌っていたら、聞いていた人がその歌に思い入れ満載だったのか、失恋直後だったのか、感動して泣いてくれたりした時の嬉しいような後ろめたいような、申し訳ないないような瞬間は、何なのか。悲しいすれ違いは、日常生活にゴロゴロ転がっています。『伝える』のは、とても難しい。簡単な指示や意思疎通はできても、人生観を小脇に抱えての重たい話題、ニュアンス命なデリケートな話に登場させる言葉選びは難しく、なかなか真意が、心が伝わらなくて、誤解とすれ違いにヤキモキするものです。
所詮、他人は他人、生きる世界も違うし、言葉への思い入れも、受信アンテナも人それぞれ、自分の見たいものしか見えないという、多くの人間に標準装備されたバイアスはいつでもどこでもついて回る、同じ日本語でも違うニュアンスであれば異文化、生い立ちにも関わるし、そこまで他人を構わず、価値観の合う人だけと平和に生きていけば良い、と割り切ることが賢い選択なのだと、大人モードの頭では考えます。でも、子供モードのスイッチはどこまでも哲学者、追究探究をやめません。争いを避け、人間関係で失敗したくないし、大切に思う人ほど慎重になり、ある程度他人と距離を取るというのも、一つの知恵ですが、そこに、気づき学び感動は生まれず、縦軸の時間はなく、人生は巻きになり、感性も思考も鈍磨し、結果、人に伝わる何か=作品や言葉も生まれず、人に何かを伝えたいという情熱の炎も消えてしまいます 。常に、向き合い続ける事で、新しい学びが生まれ、感動が生まれ、豊かな表現、人生が広がるのです。勿論、それを他人に押し付けたりはしませんし、あくまでも自分の心の中での出来事です。他人の領域は犯さず、来るもの拒まず、去るもの追わず、は鉄則です。
ことばの壁を超えて、誰かと深く分かり合えるようになりたくて、想いを余す事なく伝えたくて、理解したくて、感覚を掘り下げ、集中し、目の前の人と、問題と、諦める事なく向き合い続けて参りました。たまに運命的に価値観の似た人に出会い、報われるような瞬間もありますが、そんな貴重な例外の中でさえ、どんなに言葉を綴っても、伝えても、考えつくしても、迷路の中で喘ぐような瞬間に出会います。涙をつまみに大人モードで、どーせ他人だし!と、酒を飲む時間も時には必要ですが、それでもやっぱり出会ったからには、袖触り合うも他生の縁、匙を投げずに向き合い続けたいと思うのです。
そして、書いていて、ふと、思いました。
子供時間にこだわり、長く濃い体感時間の中で、言葉を探し続けてきた私ですが、今まさに正真正銘本物の子供時間を過ごし、言葉をゼロから習得中である、我が子という、私の感覚では掴めないとてつもない何かを秘めた生き物が、目の前にいるではないかと。私の人生のテーマをさらに掘り下げてくれるヒントが、指をしゃぶりながらイビキをかいているのです。そうです、人生はいつだって灯台下暗し。
生まれて間もない赤ちゃんは、そもそも言葉を理解していないので、言葉の意味が伝わらなくて当たり前ですが、その代わり、何も疑わないし曲解しないし、経験値のバイアスもないから、例え意味は伝わらなくても、心はダイレクトに伝わったりします。ニコニコしたり、ナデナデしたり、怒った顔をしたり、涙を流したり、非言語的なコミュニケーションの上に、何のフィルターも通さない感覚と感情だけの世界があります。これが、成長と共に、言葉を覚え、経験値が増えるに従い、こだわりなど出てきて面白く、可愛く、めんどくさくなってゆくわけです。
それでも、身の回りにおきる様々な現象の名前を一通り知るまでは、『きっとコレは、アレだから』と自分勝手に思い込んだり、決めつけたり、深く考えずに簡単に処理して流すという芸当はできません。たとえ、瞬間、瞬間は、そんな思い込みをしても、経験値が増えるに従って、それを覆される経験にも出会います。頭をフル稼働させ、少ない知識と経験を駆使してオリジナリティあふれる解釈をし、大人を笑わせたり感心させたりします。いちいち立ち止まって、しゃがんで、道端で初めて出会う虫を見つけて考えこみ、手にとって、口に入れて、大人とは違う世界で、世界と真剣に向き合い息をしている哲学者、子供。
思い込みや決めつけ押し付け、経験値バイアスさえ邪魔しなかったら、言葉の壁にまつわる誤解やすれ違いもなく、ゼロから互いの言葉をよく聞き、理解し、伝え合えるようになるのにね、とテレビのリモコンをかじってニッコリする我が子をみて思いました。分からない事を理解したいという情熱さえあれば、すれ違いも誤解も乗り越えて、ただ理解だけが双方の間に鎮座します。そうして過ごした時間の中には、たくさんの感動があり、気づきと学びがあり、豊かな記憶が溢れて、体感時間も長く充実したものになる。人類が皆、大人時間と子供時間の切り替えスイッチを持って、パチンとオンオフ、いちいち感動し、いちいち考えて、いちいちゼロから理解し、それを大人モードで情報処理し、その後に活かす、そんな生き方ができたら、誤解やすれ違いなど起きないのではないか、と思います。
争い、いさかい、足の引っ張り合い、奪い合い、誹謗中傷、炎上などなどは、だいたい誤解とすれ違いと無知のリングの上にあります。なるべくなら、そのリングには上がりたくないですが(私はわざわざ上がりがちですが)自ら望まざる状況で、勝手にリングに上げられていたりする事もあります。わざわざ首を突っ込めば、巻き込まれ事故にも合います。首を突っ込まなきゃいいのに、私はどうしても目を逸らせない。でも、リング上の出来事と自分自身を客観的に見守り、後学のために記録する事も忘れません。
もし、我が子が私と同じ疑問や苦労や失敗に出会い立ち止まったら、その最中、学んでいる瞬間は、邪魔せず見守り、傷が残らないバンドエイド的なサポートを用意したり、後処理の仕方や、思考の整理のヒントを与えたりできればいいなと思います。何も押し付けず、決めつけず、思い込まず、向き合いながら。大人モード的知恵袋を有効活用する術も少しずつ、学んでいけるように、アドバイスはしますが、何より、自分の頭を使って哲学する楽しさや、葛藤と学びの先にある感動、それに伴う縦軸の時間の充実、大いに悩み、傷つき、泣いて笑って怒って悲しんで、フルスロットル喜怒哀楽、学んで感動して、それを糧にして豊かな人生を歩む事を楽しんで欲しいし、親離れされるまでは一緒に楽しみたい。
これから先、我が子と接し、彼がゼロから積み上げ理解していく世界に向き合い、理解に努め、彼の『何で?』『どうして?』『コレは何?』に寄り添い、毎日いちいち感動して、新しく発見し学び続けて行く姿を見守る事が、私史上最大の学びになるのではないかと、思っています。この先の1年は、きっと30年以上の濃さになるのではないかと、ワクワクして寝れなくなった午前4時です。
もっと人間を、人生を学ばせてください!
先生!生まれて来てくれて、ほんとにありがとう!
実はこのnote、2021年11月に書き始め、書いては消し、都度書き足し、綴って参りました。まさか子供を産むとは思っていなかった頃から考え始め、この度やっと、一つの着地点を見つけたわけです。めでたしめでたし。
私の約2年間に積み上げられた膨大な縦軸の時間が、ここにあります。今これを読んでいるあなたの縦軸の時間の糧となってくれたら、嬉しいです。
私の思考整理哲学ノートを、長々と読んでいただき、ありがとうございました。