自己肯定感の低い人がしている無駄な努力
自己肯定感が低かった自分を振り返って
自己肯定感というここ数年で現れた言葉。
意味としてはこういう意味だそうです。
この記事では、わたしの、あくまでわたしの意見で感想を話します。
自己肯定感って高けりゃいいというわけでもないと思うんですよね。自己肯定感が高すぎるのは、単なる楽観主義だと思うんです。
自己肯定感が高い人と関わることがそんなにないので、彼らの生態はわたしにはわからないのですが。
比較と無駄な努力の罠
自己肯定感が低いところから、フラットにした私が思うに、自己肯定感が
低い人は、「事象と事象の比較から問題意識を持つのがめちゃくちゃへたくそで努力の方向が間違ってる人」だと思います。
自己肯定感の低い人の特徴として、「とにかく人と比べてしまう」という点が挙げられると思います。
わたしが以前自己肯定感が低かった時の話を二つします。
一つは、中学生~大学生あたりから、足の細さ=女の子の価値みたいな価値観にとらわれてしまったことから、自分と相手の足の細さをひたすら比べていたこと。
わたしの足は部活を引退して筋肉がぜい肉になった関係なのか、ふくらはぎがすごく太い感じがしました。それがコンプレックスになって、ひたすら、ふくらはぎが自分より太そうな人を探しては、安心していました。
この努力どう考えても間違ってますよね?
足がそもそも太くない、という認識を持てないなら、せめて、足が太くなる仕組みを調べて、どうやったらきれいな足になれるのか、調べて、努力するのが正しい努力ですよね。
自分より足が太い人がいても、足が細い人がいても現実の自分の体は変わりませんからね。
そもそも、足の細さ=女の子の価値という価値観に支配されてるメンタルのケアをするべきだし。
しかし、所詮15~20代前半の小娘にそんなことに気づくすべはありません。
自己肯定感をあげる方法!という言葉であふれていますが、時間の経過による脳の成長で認識がまろやかになることだってあると思うんですよね。
数字に囚われた過去
二つ目は、いいねの数をくらべてしまうこと。ハッシュタグでアップロードした絵を見ていくと、同じくらいの時間に投稿した人なのに、いいねやリツイートたくさんされてる……!と比べるわけですよね。
この時間と感情もったいなくないですか?見てくれて、反応してくれた人に失礼じゃないですか?
自分の絵の方が魅力ないのかな……頑張ったのにな……と思うかもしれないですけど、そもそも、絵を見てリツイート・いいねしてくれるフォロワーという人間関係をその人がどれだけ構築できているかもあります。
単純に目が引かれて、他人の価値観や期待に応えられている絵を描けている人もいると思いますが……
シンプルにただ、いいねとリツイートが欲しかったのなら、リツイートするタイプのアカウント運用をしている人と人間関係を構築すればいいだけだったりしますよね。
そういう、投稿している人の事情を全部なかったことにして、シンプルに数字で比べるという無駄な努力をしていました。
他人の価値観や期待に応えるのも大事ですが、ひとつ、聞きます。
「投稿した絵はあなたの見たい絵でしたか?」
自分らしく生きるための第一歩
自己肯定感がフラットになってから起きた話をひとつ。
この間投稿したV様のファンアートが、同時にV様にリポストされて、もう一件の方の絵が目は引かれるわ、デザインが凝ってるわで、これは、文句なしにこの人の絵がSNS向けだな~と思いました。
実際その方はフォロー・フォロワーも一桁前半でしたが、わたしより反応がついていました。
わたしは、visionという本で学んだ知識を実践したかったのもあって描いたのでお気に入りの一枚という事実はゆるぎませんでした。
わたしの尊敬している絵描き友達はみんな、話しをしていると、自分の好きを表現する手段として「自分の見たい絵」を描いていて、結果として魅力的な絵を描いている気がします。
無理なく続けるためにも、「自分の見たい絵」を描くのは大事だなあと思います。
自己肯定感の低い人について、ぼろくそに言ってしまいましたが、「問題意識へのベクトル」を正しい解決に向けることが抜け出すコツだと思います。
自己肯定感をフラットにする方法
じゃあどうやって自己肯定感をフラットにしたの?という話ですが、「足が細い方が価値がある女の子で、自分は価値がない」という自己暗示を解いたり、いや、足が細い方が需要はあるとは思いますが、そういう話ではなく。
とにかく、自分にかかっていたたくさんの自己暗示を解いた感じですね。
暗示にかかりやすい人が自己肯定感の低い人だという仮説が本当なら、プラスの自己暗示にもさらっとかかるかもしれないし。
偉そうに言う私もまだまだこれからです。正しい努力の方向へ頑張るぞ!