教師冥利に尽きる
昨日は上の子どもの卒業式でした。あわせて、学校制度が中等教育学校に移行するため、高校の附属中の位置づけはうちの子どもが最終の世代であり、卒業とともに「附属中」は消滅します。ですので、その閉校式を兼ねての式典でした。
卒業式はある意味、良くも悪くも陳腐な内容で、儀式への出席を保護者の義務と考え、時間の経過を待っていた感じでしたが、閉校式というのは、制度上の発展的解消とはいえ、さほど長くない附属中としての歴史を振り返れば、まずはアイデンティティの確立に時間を要し、感染症拡大長期化により意欲的な取り組みは勢いを削がれ、最後の期数になりようやく、伝統の継承とアーカイブ化のための一連の行事を為すことができた感じです。
とはいえ、卒業式の主役はその名を冠した儀式ではなく、最終学年の担任の教師なのだと、強く感じました。
僕の子どもの担任の教師は、無駄にパワフルでもなく、無気力とは程遠い、自分の役割の重さを十分に自覚したうえで、自己の能力の研鑽を怠らず、自然体で子供たちをまとめ上げる力のある、教師になるべくして生まれてきたような人物で、「まだ若いけどひとかどの人物」という評価は、この教師のためにあるように思いました。
確かに、クラスの40人それぞれが事情の異なる中、「クラス」の色みたいなものを付けるのは難しいと思います。
公認化された指導者はクラスという結界に先生一人しかおらず、まともに問題に向き合おうとすると、多感な生徒の感情を刺激し、人生に大きな影響を与える、これはなかなかのプレッシャーで、教師の力量と裁量で解決できないことがほとんどでしょうが、
共感と共有により寄り添うことができる、「最後まで信じている」という気持ちを持ち続ければ、生徒たちも担任を慕い、親子関係でも築くことの難しい、信頼関係を構築できます。
昨日の卒業式の最終局面を担うロング・ホームルームは、「最後の授業」といえるものであり、終わった後は担任の教師も涙腺が崩壊して、足早に教室を去っていく、そこを多くの生徒たちが追いかけていく姿が見えました。
「冥利に尽きる」という言葉がありますが、世の多くの職業の中で、多くの人の日々の成長に直接、深くかかわり、最大の報酬は子どもたちの感謝の心である、教師ほど、この「冥利に尽きる」という言葉が合う職業はないように思います。
僕自身も保護者として、涙腺がゆるみかけたので、教師のやりがいのようなサイトを探していたら、大阪教育大学に下記のような特集ページが組んでありました。
マスの影響力を持つような仕事ではなく、自分の器量に応じて稼げるわけでもなく、その割に聖人君子的な理想像を求められ、社会からはあらゆるニーズが求められ、現場として混乱しかねない状況の中で、ミッションに悩みながら、子どもとともに考え、成長していくことは、なかなか大変なことだと思います。
また、常にサービスの対象が入れ替わり、千差万別の事情を抱える相手に応じてチューニングすることが求められるため、自身の生産性を高められないまま、一年が終わってしまう人が大半ではないかと思います。
このため、割にあう、あわないを考えると、時代を追いかける仕事ではないかもしれませんが、普通の親と異なり、子どもの成長を何十倍、何百倍と見届けることができる、これはプライスレスな価値であり、この価値がわかる人だけが教師を志す限りにおいては、倍率がどうこうは、そんなに気にしなくても良いのかもしれません。