泥中のダイヤを求める真摯な集まりの人間関係を大事にする
昨日は都内某所で講演会があり、そこに話を聞きに行ってきました。
ただ、講演された講師の方には失礼ながら、講演会そのものは、以前から何度か聞いている内容であり、それだけが目的であれば、わざわざ出かけたりはしません。
どちらかといえば、講演会に集うかつての仲間と、顔を合わせるのが目的であり、大ホールでの講演会でもあり、目的は半ば達成といったところですが、それでも、親しいとまではいかなくても、よく見知った仲間が変わらず活躍している姿をみかけ、何となく気持ちが落ち着きました。
この講演会は、どちらかといえば自己啓発の入門のような位置づけであり、その先には、自己啓発系の活動団体に入り、活動に参加すると、自ずと活動の回数が増えることが、団体の中では是とされることになり、さらには主催者側になって人を誘うことが、必然の着地点となっています。
僕自身も若いころは、そうした活動に身を挺して、それこそ寝食忘れて活動したこともありました。
こうした活動は、団体の中にあって勧められることを受け入れることで、仲間として認められる面もあり、仲間との結びつきが強くなるほど、団体の外とのつながりは薄れてきます。
ただ、僕の場合はある時期に、僕なりのバランスを保てるラインで線を引いて、そこから先に踏み込まずに、団体の中での最低限の立ち位置を確保し、関係を持ち続けてきました。今回の講演会への参加は、その一環になります。
限りある人生において、どれだけ博覧強記になろうとも、宇宙を俯瞰する知恵を手に入れられない以上、自分の人生の賭けどころ、人生の最上の道を自分の知恵により見出すことは、不可能に近く、
手の届く範囲には老病死の三苦をごまかすことはできても、苦しみを取り除くことのできるものはないため、その苦の克服を目指すには、どうしても自分の及ばない、一種の超論理に賭けることになります。
新興宗教にお金をつぎ込むことは、形としては良くないことに分類されがちですが、収支尻のあわない献納に突き進むことに批判があるわけで、お金の使い道のない人にとっては、自分なりに納得してお金を使うことで、精神的な安定を得ることができる面もあり、実利がないからといって、効能がないと否定できない難しさはあります。
じっさい、僕自身、この団体に若いころのかなりの時間を費やしたことで、得られたものもあり、バランスを崩して社会的に落伍したわけでもなく、そこは距離感を保ちながら、人生の艶ある果実も得てきた面もあり、今もつながることで、精神的安定のすべてをそこに委ねているわけではないけれど、確実に精神の安定の柱の一つにはなっています。
もちろん、団体の活動を最優先の善とする立場からすると、つまみ食いは公式には許されないのでしょうが、最低限の役回りを担えば、表向きのスタンスさえ団体の公式見解にあわせておけば、内面まで侵襲して咎められることはありません。
人生、何事も中途半端では、大きな果実は得られないから、自分が至上のものと信じているものに、ステータス全振りする、団体の中にはそうしたところを突き進んでいる人も少なくないですし、
そうした物差しで比べると、僕はすでに大きく後れを取っているわけですが、そこまでは信じられなかった、でも保険をかけておきたい、自分の心も変わるかもしれないから、今の気持ちはそんな感じです。
自分の内面の表現がもっとも難しい部分でもあるため、一体何を言っているのか、わからないかもしれませんが、
世の中に絶対善のようなものがあって、それがいま、自分の手の内にあると確信できるほど、自分の人生が都合の良い場所にあると考えられる人は、そうはいないので、
団体なりその指導者なりに、認定してもらうしかないのでしょうが、そこに一抹のうさん臭さを感じてしまう、
ただ、そこでつながった真摯な人間関係は手放したくない、
これは、一度は泥中のダイヤを追い求めたことのある人には、何となく理解できる心理ではないかと思います。
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