ユダは裏切り者ではない。
ウボォーギン「オレ達の中にユダ(背信者)がいるぜ」
クロロ「いないよそんな奴は。それに、俺の考えじゃユダは裏切り者じゃない」
今回は、「ユダは裏切り者ではない」を解説していく。
長い話になると思う。聡明なキャラクターであるクロロは、ユダにまつわる長い話をよく知っているのだろう。
できるだけ簡単な言葉を使って、飽きないように画像も入れていく。がんばって読んでほしい。
①土地の名前としての「パレスチナ」。ユダヤ教・イスラム教・キリスト教の聖地エルサレムがある土地。
②1948年にイスラエル(ユダヤの “国” )ができた。厳密には独立宣言をした。その土地の残りの人たち(自分たちも国を作りたい人たち)が住む、地域の呼び名としての「パレスチナ」。
どうして国になれていないのか。
独立国家の条件
・領土。 そもそも土地がないと無理だ。
・国民。住む人がいないと話がおかしい。
・主権。 自分たちの国のことを自分たちで決める権利。
②の意味のパレスチナに足りていないのは、まず、ハッキリとした領土である。定まっていない → 変わってしまう。実際、面積が減っていっている。
歴史上、大きな迫害を複数回受けたユダヤ人。彼ら彼女らは、ヨーロッパやアメリカといった別々の場所から、この土地に集った。聖書の内容にもとづいて。「パレスチナは神が与えた約束の地」(このパレスチナは①の意味)。そして、建国をめざした。
シオニズムだ。シオンという言葉も、かつてはエルサレムと同義であったが、イスラエルを示すようになっていった。
これに対する元住民の反対運動が、過去に複数回あった中東戦争だ。ざっくり言ってしまえばだが。
1993年に、一定の地域でパレスチナの自治を認める約束が交わされた。そうして、パレスチナが独立するまでの仮の政府=パレスチナ自治政府ができた。
2021年時点で、138の国連加盟国が、パレスチナを国家として承認している。だが、常任理事国であるG7は承認していない。
イエスはベツレヘムで生まれた(という一説がある)。エルサレムから10kmほどの距離にある町。1995年以降、パレスチナ自治区に属している。
日本では、イエスが馬小屋で生まれた話が定着している。しかし、イエスが生まれたのは家畜小屋で、馬ではなく牛やロバの小屋だ。
フランス語で étable は牛小屋。英語だと stable で馬小屋。昔は英語でも家畜小屋と認識されていたが、現代では馬小屋と認識されている。日本語訳した時にはすでに馬小屋解釈になっていて、語源のフランス語までさかのぼらなかったりしたため、差異が出たものと思われる。
これくらいなら、まだ話の流れが追える。
福音書の中にこういう話がある。
「群衆の中には、この人は本当にあの預言者だと言う者や、この人はメシアだと言う者がいたが。このように言う者もいた。メシアはガリラヤから出るだろうか。メシアはダビデの子孫で、ダビデのいた村ベツレヘムから出ると、言われているではないか」
福音書の筆者(イエスの弟子)は、イエスがメシアでありベツレヘムで生まれたと思っていた。イエスに反対する人は、イエスがメシアでないとするために、別の場所で生まれたことにしたがっていた。と、このように読める。
しかし。新約聖書の他の記述では、筆者(別のイエスの弟子)からも、イエスはナザレ人とみなされている。
「ダビデの子孫がベツレヘムで生まれる」ちまたで先んじて言われていたのは、こちらだった。イエスがベツレヘム出身という話は、ここからきた(ダビデの話が元ネタ)のではないか。筆者が話をくっつけたのではないか。と、このように推測されている。
みんな、それぞれの “推し” を推すわけで。
別に。ありのまま、たとえばナザレ出身でも、いいじゃないか。自分の推しは、たとえばダビデの権威など借りずとも、素晴らしい人なんじゃないのか。
どの説を信じるというのとは、別の話として。イエスの生まれた場所はわからないのだ。
今までずっとわからない・専門家にもわからないのだから、私たちにわかるわけがない。
わかるとすれば、こういうことの方だ。人々はメシア(救世主)を待ち望んでいた。
大昔の大変な暮らしを想像してほしい。自然災害・飢餓・絶え間ない争い・短い寿命・子どもの高い死亡率……。誰かどうにかしてくれよ!と。現代人にだって、わからなくない気持ちだ。
ユダはよく、イスカリオテのユダと呼ばれる。
イスカリオテとは、ケリヨテ(町名)の人という意味だ、と説明するものが多いのだが。これも、実際は、専門家の間で議論が続いている。
エルサレムの南にある町をさしているのかもしれないし、彼の死に方をさしているのかもしれないと。
いまだにわからないのだから、ずっとわからないのかもしれない。遠い昔のことだ。仕方がない。
このくらいのことが判明したところで。宗教系の争いごとを解決したりはしなかろう。
いろいろなことが「わからない」のだ。そういう前提を忘れずに読んでほしいという意味で、これらを書いた。
ユダは十二使徒の1人だった。十二使徒とは、イエスに宣教者として選ばれた12人の弟子たちのこと。
福音書に記述されているように。イエスを当局に引き渡したとして、ユダは、裏切り者であるとされた。
大前提。なぜ、イエスやイエスを慕う人々は処刑されたのか。これについては、また回をわけて書く。長くなりすぎるため、今回には入れられない。
この回に書いた。気になった人は後で読んでほしい。
ユダは永遠に許されない人となった。現代でも、子どもにユダという名前をつける人はほとんどいない。紀元1世紀には、ポピュラーな名前だったのに。
ポピュラーな名前だったのだから、他にも、ユダという人はいた。たとえば、タダイのユダ。イスカリオテのユダとの混同をさけるために、意図的に軽視されてきた人で。「忘れられた聖人」と呼ばれている。
ユダはヘブライ語で、神に感謝するという意味。ギリシャ語では、反乱の成功を意味する。元来、悪い意味の言葉などではない。ユダ君がほとんどいないのは、やはり、ユダ = 裏切り者説が根強いせいだと考えられる。
イスカリオテのユダは、マルコの福音書 = 最古の福音書から登場している。
新約聖書の5つのジャンル
①福音書:イエスの誕生・生涯・教え・死と復活について
②歴史書:イエスの弟子たちの活動について
③パウロの書簡:パウロが教会や個人あてに書いた手紙
④公同書簡:パウロの書簡に含まれない、教会や個人あてに書かれた手紙
⑤黙示録:世界の終わりに起こることの預言
①の福音書は、さらに、マルコの福音書・マタイの福音書・ルカの福音書・ヨハネの福音書の4つにわかれている。4人はそれぞれの著者。
マルコの福音書:紀元70年頃
マタイの福音書:80年頃
ルカの福音書:90年頃
ヨハネの福音書:100年頃
の成立と考えられている。
以下、マルコの福音書にある内容
「弟子の一人イスカリオテのユダは、イエスを売り渡そうと祭司長たちのところに出かけた」
「ユダが来意を告げると祭司長たちは喜び、謝礼を払うことを約束した。それ以来、ユダはイエスを引き渡す機会をねらうようになった」
このくらいガッツリ書かれている。
以下、マタイの福音書にある内容
「十二弟子の一人イスカリオテのユダが祭司長たちのところへ来て、あのイエスをあなたがたに売り渡したらいくらいただけますか、と聞いた。こうして、とうとう彼らから銀貨30枚を受けとった」
このように確定 of 確定で書かれている。
福音とは良いお知らせのこと。
同様の内容が書かれているのだが、それぞれ強調されている点が異なったりする。
マルコは、エルサレムのマリヤ(イエスの母ではない)の息子。マリヤのエルサレムの家は大きく、集会所として使用されていた。今風にいえば、実家が太かったのだ。
マタイは税金徴収者だった。いつの時代も嫌われがちな職業だろうが、マタイもまわりからガッツリ嫌われていた。イエスは、そんな彼にやさしかったという。職業柄、記録をとることに長けていた。
ルカは医者だった。聖書を執筆した唯一のユダヤ人でない人。そのため、ギリシャ・ローマ文化の人に響くような内容が書けた。また、イエスを「人の子」として描写して、イエスの人間性を強調した。彼の人格のよさ的な。
ヨハネは、イエスに愛された弟子という自己紹介を書いた。イエスの大事な場面に常に同行したのは、ヨハネ・ヤコブ・ペテロだったため、そう思ってもおかしくない。ルカとは反対に、ヨハネは、イエスが「神の子」であることを強調した。
「これらのことを書いたのは、あなたがたが、イエスは神の子キリストであると信じるためである。また、そう信じて、イエスの名によって命を得るためである」
マルコの福音書(最古の福音書)をお手本にして、他3人は書いた形。よって、マルコが鍵だ。
ユダについて、マルコはどこでどのように、情報を得たのか。今でも不明のままなのだ。
ーーユダは12番目であり、彼が裏切りの末に死んだために、マティアが新しい12番目の使徒となったのであって、ユダを第13使徒とするのは誤りである。ーー
このような説明が存在するのだが。私は違和感を感じる。擁護しているようでしていないというか。
以前に書いた関連回。神聖な12という概念ありきの、13に対する不当なあつかいについて。
4福音書で、十二使徒が誰と誰と誰だったかさえ、統一されていない。たった12人の側近に関してさえだ。
このように。それぞれがかなり自由に執筆していた/できていた感は、否めない。ユダ = 裏切り者でこじつけていくくらい、簡単にやった/やれたのではないか。
話に矛盾を感じる部分
一部の記述から。他の弟子たちは、ユダが何をしようとしていたか知っていたのに、行動を共にしていたと読める。
ヨハネの福音書には、ユダは賽銭箱を預かる役割をしていたとある。
金欲しさに裏切ろうとしている者に、そうと知っていながら、賽銭箱を預かる係をさせていたと。自分ならそんなことをするか?と考えた時、つじつまがあわないと思うに至る。
高価な香水をイエスの足にかけた者を見て、ユダが、香水を売ってその金を貧しい人に与えた方がいいという見解をもったことも。
ユダに、「換金した方がよい」という精神があったせいだと。今まで、このような解釈がなされてきた。自分が言われたらどう想うか、想像してみる。SNSなどでよくある嘆きだ。書いていない・言っていないことを読みとらないでよ!
イエスが当局に「引き渡された」という言葉は、ギリシャ語では、「裏切られた」と訳されてしまっている。2つはぜんぜん違う動詞なのに。ユダ悪人説ありきの人が、曲解して訳したように見えるほどだ。
「私と一緒に食事をしているあなたがたの一人が、私を裏切るでしょう。それは十二人の内の一人です」(マルコ 14:17-21)
マルコの話には、これ以上の手がかりがない。
ヨハネが、より詳しい話を提供してくれている。(ヨハネ 13:21-30)
「あなたがたのうちの一人が私を裏切ろうとしている、と。弟子たちは互いに見つめあい、どの弟子を指しているのかわからず、途方に暮れた。
主よ、それは誰ですか。イエスはお答えになった。それは、私がこのパンを皿に浸して与える人である。そして、ユダに渡した。
イエスは彼に告げた。あなたがしようとしていることは、早くしなさい。食事の席の誰も、イエスがなぜ彼にこのように言ったのか、理解できなかった。
ユダはパンを受けとると、すぐに出て行った」
※後でより詳しく解説する。
イエスを裏切ったユダは、最終的に自責の念にかられ、首をつったとされている。
学者らは、ユダの動機が何であったか、長年議論し続けた。
彼は革命派だったのではないか。イエスがローマに対する反乱を呼びかけなかったため、彼は失望したのではないか。など。
イエスは自分が死ぬことを知っていて、当局に自らを引き渡すという役割のために、故意にユダを選んだのではないか。こういう説もある。
そして、この説が最も有力であることが判明したのだ。
2006年。ナショナル・ジオグラフィック協会が、『ユダの福音書』の発見と翻訳を発表した。
ユダの福音書には、紀元2世紀の福音書とは全く異なる視点のイエスが、書かれていた。
グノーシス主義(ざっくりいうと、人間を救済に導く究極の知識に関するもの) のイエスが書かれていた。
イエスは、自分自身の内にある永遠の神を受け入れることによって、救いが得られることを人々に啓蒙するために、世につかわされたのだと。
この福音書の大部分は、イエスとユダの対話で構成されていた。イエスとユダの対話の多くは、他の11人の弟子を観察しながら行われていた。
ユダの福音書の中で
イエスは、ユダ以外の11人が、殉教や肉体の復活を信じることでしか救いを見いだせないことを、ほとんど嘲笑するように指摘していた。
イエスは私(ユダ)に、自分は御父のもとに帰るので、自分を “裏切る” ようにと言っている。
この発見が、苦節うん千年、ユダの濡れ衣を晴らしてゆくか。
ユダは、裏切り者どころか、イエスの真の姿を理解する唯一の弟子であったのかもしれないのだ。
ここまで書くと、邪推の範疇にさしかかるかもしれないが……
もし、11人がこのイエスとユダの特別な関係を察していたとしたら。彼らはどうしただろうか。
あえて、現代風に言う。
推しに明らかに気に入られている人が1人いて、2人が一緒に自分たちに評価を下していると知った時、あなたならどうする。
一度、世に流布された話は止まらない。
ダンテ『神曲』の地獄篇では。ユダは、カシウスやブルータスと共に地獄の中心にいる。ユダは堕天使からさえ、痛めつけられている。
無実の罪で罰せられるーー誰かに似ていないか。
イエスが受けた磔(はりつけ)。
英語圏でこのあたりの話の授業を受けると、crucifixion と passion という言葉が、繰り返し先生から語られる。
名詞:crucifixion(クルシフィグジョン)動詞:crucify(クルシファイ)。極度の苦痛をともなう処罰を与えること。ピンポイントに、古代社会の処刑の種類も意味する。
passion はラテン語の patior が由来。苦しみや苦しみに耐えること。情熱という意味になる前は、こういう意味だった。ピンポイントに、イエスの死までの最期の期間を表す言葉でもある。
「INRI」は、イエスの磔刑で十字架に書かれた文字。ラテン語 IESVS NAZARENVS REX IVDAEORVM の頭文字。「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」。おまえたちの王はこんなことになった・王なのにこうなことになったという、イヤミである。
イエス以外の、刑に処された身体の様子を見てほしい。こちらが現実に近い。イエスは忖度されて?/ヒロイックに描かれがち。
釘が打たれたのは、手のひらではなく手首と、それから足首だ。骨のある部分に打たないと、自重で裂けて落下しかねないからだ。
それでも。それだけの “支え” で、人体がこのイエスのような……やや浮いているような……磔になると思うか。ならない。
想像を絶する苦しみであり、見た目もむごたらしい。拷問と同じだが。我々に逆らうとこのようになるぞ、と最大限に表すために、そうされる。
私個人は信徒ではないため、ただただ、遠い昔の人々のつらさに思いを馳せるのみ。学びを今や未来の平和と幸福に活かしたい。
続きはこちら。