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新年の 初追い切りで クソ時計

今日は暇だったので新年初追い切り(ジョギング)をしました。


時計換算について

馬の世界では1F(いちハロン)200mです。タイムが11.8なら
「200mを11.8秒で走った」
ということになります。サイレンスキャットも馬的な存在のため、追い切りの表記は競走馬に倣っていますが、
1Fは2000m
追い切りタイムの単位は(分)

という扱いにしています。
 
5Fを60.0-10.5ならば、
「10kmを1時間、ラスト2kmは10分30秒で走った」
ことになります。キロ6分程度のUnkoペースでしか走れないので、たまたまタイム換算は上手くいっています。また、計測器をつけて走るわけではないため、全体時計だけは正しいもののラストの時計などは眉唾です。

サイレンスキャットの調教(ジョギング)コースは、今は10Fと7Fの2通りあります。景色に飽きたら新コースを開拓するかもしれません。
ヤル気や時間があまりない時は7Fで追い切っています。
 

スパルタ系マインド

このように、持ち時計の割には長い距離を走る厩舎(?)に所属しています。こうなった主な理由は2つです。

1つ目は、LSD(ヤクではなく、ロングスローディスタンス)が色々と効果的だからです。持久力の向上、脂肪の燃焼、正しいフォームを身に付けられるなどの効果があります。
私が追い切る理由は、タイムを縮めたい、馬の気持ちになりたいなど様々ありますが、メインはデブの防止です。休み明けのグラスワンダーではなく、常にレクレドールくらいの身体にすべきです。
よって脂肪燃焼に効果的な方法を選んでいます。

2つ目は、1つ目と近い話になりますが、有酸素運動は始めてから20分くらいから脂肪燃焼の効果が高まるからです。
ずっと昔にこの話を知った時に
「じゃあ長く走った方が得じゃん」
と感じました。今でもそう思っています。そんなに頻繁に追い切りをする気概は皆無ということもあり、どうせ追い切るならその後しばらく追い切らなくてよいくらい走る習慣がつきました。

たぶん、基本マインドがスパルタ系なのでしょう。
自分をいじめた結果得をするなら、存分にいじめればよいと思っています。
 

強欲がアダとなる

新年初だから10Fだよなーなどと考えて追い切りし始めた私。タイムはどうでもよいのでのんびり走っていましたが、半分くらい過ぎたところで早くもバテ始めました。

バテた理由は単にエネルギー切れです。
追い切りは昼過ぎからでしたが、今日は朝~昼に合計200kcalくらいしかとっておらず、しかも午前中はカラオケ行っていました。
走る前からエネルギー足りなさそうとは薄々感づいていたものの、
「エネルギーなくなったら脂肪を燃やせばおk」
という理屈で、デブ防止効果を強欲に得るべく10Fにしました。そしたら、脂肪を燃やすどころではなくなりました。笑

追い切り中に脚が止まった場合、時計を詰める力をつけるという視点では、それ以上走っても無駄です。キロ8分とかでだらだら続けるより、キロ6分で走れる元気がある時に走った方がよいに決まっています。
脚が止まってなお続けて得られるものは、根性くらいです。

でも、競馬において我慢とか根性は意外と重要です。
我慢ができずにクソ馬券を買って後悔した経験がある人は多いでしょう。予想屋たるもの、そんなことではいけません。
そして、普段我慢できない奴が馬券で我慢できるわけありません。

そんなわけで、私は止まった理由が脚の不調じゃない限りは追い切りを続行します。スタミナ調教から根性調教に切り替えるわけです。
初代マリカーのタイムアタックのように元気な自分の幻影と併せ馬をし、ぶっちぎられて折れたい心と戦います。

しかし今日はあまりに止まってしまい、残り2.5Fでギブアップしました。
ギブアップした地点から自宅まで、追い切りコースを無視してショートカットしても3kmくらいあり、残りを歩くだけで死にそうになりました。
手が冷えまくるし、感じるのは絶対ヤバい兆候である「ピリピリ痺れる感」もあり、エネルギー大事だなーと実感しました。
 

終わっている経験も結局プラス

帰宅後はエネルギーを補充し、寒いのですぐ寝ました。だからこんな時間に元気にnoteを書いてしまっています。

新年初追い切りは散々な結果になりました。
しかしながら、追い切らなければよかったという後悔は全くありません。

自宅に帰るまでは死にそうでしたが、帰宅後シャワーを浴びる時間は安堵と僥倖を感じます。エネルギー切れに気をつけなければならないことを理解しましたし、途中ギブアップでも根性の調教にかなりなりました。
失敗に終わっても結局プラスです。
 

心を知ることが、改善の第一歩

世の中には、成否に関わらずプラスになることが多くあります。
結局プラスならやらない手はありません。しかし、人によっては失敗によって自己肯定感を下げてしまうため、やればいいだけのことなのにできない理由を捻出したり、腰が重くなったりします。

行動ができないのは、その人の性格ではありません。癖です。やらない癖をつけているから行動ができなくなるだけです。

失敗によって自己肯定感を下げる人たちに対し、
「できた部分を褒めてあげればよいんだよ」
と言うのは簡単です。でも、言ったところで
「それができりゃ苦労ないんだよ!」
と返されることも容易に想像できます。

できた部分を褒めるのは、本来は周囲(親)の仕事です。自己肯定感をすぐ下げる人は、その人の性格のせいという面は小さく、親や周りの人がちゃんと仕事をしなかったのです。
だから自己肯定感を低くする人は、自分を責める必要は皆無です。自分ではなく周りがUnkoだったのですから。
ただ、責めることはありませんけど、
「こういった経緯で自己肯定感が低い自分ができた」
ということは理解しなければなりません。

もし、周囲の環境によって自己肯定感が低くなったと理解できれば、
「失敗は怖いけど、それはこれまでの体験のせいだ。できたことを褒めるのはもう他人に期待できないから、頑張って自分が褒めよう。失敗しても、沈む気持ちに負けずにできたことを考えるようにしよう」
などと、自分を変える具体策が見つかります。

つまり、自分を正しく知り理解をすれば、「うつ」など心の問題はなんとかなるのです(一朝一夕には無理ですけど)。正しく知らないから、何をすればよいかわからなくなります。

私は上記のように考えるので、病んだ人は加藤諦三の本を読めといつも言います。
加藤諦三は、自分の心を知らずにうつを治そうとすることは、故障部分を把握せずに車を直そうとするようなもんだと仰っていました(たしか)。

追い切りの話からけっこう逸れてしまいましたね。
とりあえず、成否によらずプラスになる行為を重ねていたらそれだけで人生楽しいよというお話でした。


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サイレンスキャット
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