表現と解釈と現実のほどあい
今回は勢いまかせで投稿するので長くなるかもしれません。
そして、ご覧頂く方によってはザワつくお話かもしれませんが
ご容赦下さい。心の内に蓄積されていたものの備忘録です。
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「キャリアアップや自己実現のための才能鑑定」
を仕事の一つとして掲げている私ですが
入り口がお仕事に関することであっても
プライベートのご相談に発展することは珍しくありません。
そして最近は特に
親子関係の話に触れることが増えたように感じています。
家族としての人間関係の中で
愛情があるからこその悩みや苦しみ。
感情が露わになりそうな時に
ひょっこり顔を出す、良心やアイデンティティとの葛藤。
むき出しになりそうな激情を無理やり押し込めた後の
倦怠感や虚無感。
これまで言葉にできていたかどうかは別として、
自分が損をしているような犠牲になっているような
寂しいような、悲しいような、虚しいような靄感。
人に話して楽になるとか解決するような事でもないと
分かっていて、自分なりに努力を重ねているけれど
ふと、誰かに肩を貸してほしくなったりして…
といった感じで、
十分に現実と向き合い続けている方には
「自分を保つためのアウトプットを行う場所」
が必要だと常々、その場面に遭遇する度に感じます。
それは対面している時だけではなく、
メールやメッセージ等、顔を見えない状態であっても
呼吸や鼓動を感じる程のリアルさが伝わることがあり。
私の中に常駐している「ある感覚」まで揺さぶられます。
古くはアダルトチルドレン
最近、頻繁に見聞きするのは
毒親
愛玩子と搾取子
育てにくい子
発達障害
ADHD
カサンドラ
ネグレクト
家庭内モラハラ
パーソナリティ障害
ストレス性の鬱
このような「キーワード」は
人を納得させたり
漠然とした悩みから進歩が見られた気になったり
ある意味、気持ちが落ち着いたり
話が通じやすくなる等
「共通言語」や「型」としての役割を果たす事があります。
そこで、です。批判を恐れずに言うと、
私はそれらの「型」を使うことにほんのりとした抵抗を感じ
自分が口にすることを避けています。
決めつけや素人判断でいびつな仮説を立てるのではなく。
仮にそのような診断を受けていたとしても、
言葉で括ってしまおうとするあまり
もしくは言葉で括ったがために
必要以上の負の感情を引き寄せないでほしい。
極力、負のスパイラルに陥らない使い方をしてほしい。
と願っているからです。
家族に問題意識を持ったり、
愛憎を感じた時の苦しみは強烈です。
しかし、それを誰かのせいにしてしまうと
後悔や自責の念にかられることも有り得ます。
(自分に落ち度がないにも関わらず、です)
また、周囲の方の認識や客観視とは程遠い状態で
着地点が見えないこともあります。
悩んでいる本人は選択や対策をしているつもりでも
実は有効な選択も解決策も得られておらず、
苦しみのブラックボックスに留まっていることにも
気付いていない…
そのような息苦しい日常で発せられる言葉によって
「幾重にも傷の上書きをして欲しくないな」
と、見聞きしているこちらまで辛く感じます。
また、内容的には少し異なりますが
愛情表現についても、相手に求める表現や形
注がれる熱量や行動のストライクゾーンが狭いが為に
常に心が乾いている方をお見受けすることも多々あります。
十分に恵まれた環境であることに気付かず
望む形とは違っていても、十分に愛情や思いやりを
注がれていることに気付かず、ただひたすら
「自分の型」にはまる愛情だけを求め続けている。
こういうケースも辛いです。
私は学習により、ある程度の知見を持ってはいても
医師ではなく、心理カウンセラーでもありません。
(心理カウンセリングのロープレや実習の経験はあっても
資格は持っていないという意味です)
そのため、このようなお話を耳にする際は一個人として対峙し
あえて「型」にはめないよう、心がけています。
表現(自分の口から出た言葉)と
解釈(記憶やイメージ)が
事実関係や現実と乖離していないか。
乖離していたとしても、それが悪いというのではなく
これまで何に対してどのように感じたのか。
今の考えや精神状態にどのような影響を及ぼしているのか。
今後、どうなればhappyなのか。
ご相談者様にはそれを意識して頂きたいですし、
「型」を外して観る必要があるのは私だけでなく
ご相談者様も同様だと思います。更に、
『言葉の足枷に繋がれたままではしっかり歩けない。
まず、その鎖を断ち切る。
もしくは解いた後が向き合い時だな』とのスタンスでいるため
話が占いの範疇を超えることもありますが
『一人でも多くの方に、自分で選んだ自分の人生に納得して歩いて欲しい』
と切に願っています。
濱上日歌