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脱学校的人間(新編集版)〈28〉

 「子どもはあくまでも子どもらしく振る舞っているべきだ」という考えがある一方で、「たとえ年若い子どもであっても、彼らは大人と同じように社会的に独立した個人なのであって、その事実にもとづいて彼らのことを、大人と同様に扱うべきだ」という考え方もある。
「…『学齢』にある児童の多くは、近隣について社会事業家とか議員などよりもよく知っている。もちろん、彼らは、むずかしい質問をしたり、官僚主義を脅かすような解決策を提案したりもする。彼らは、成人として認められるべきである。…」(※1)
 しかし実際には子どもが本気で「大人と同じように」振る舞い、あるいは「大人の話に首を突っ込んでくる」ようなことでもあれば、大人たちは「子どものくせに」と眉をしかめ、彼ら「子どもたち」のことを手厳しくつっぱねるのである。そもそも、「大人と同じように」などとあえて意識している限りでは、それはそれで「子ども扱い」にしかなっていないということなのだが。

 また世間では時折「大人顔負けの才能」を発揮する子どもたちが現れたりもする。ただそういった「早熟な天才」について、むしろその「才能」ではなく「早熟であること」の方に、より強く大人たちの関心は向けられがちだろう。曰く「年齢のわりに」とか「その年齢にしては」とかいったように。
 たとえば、宇多田ヒカルがデビューした当時のことを思い返せば、彼女が一体どのような扱いを受けていたかわかるだろう。「その歌唱力や表現力そして作曲技術は、とても十六歳とは思えない」などといったような声が、彼女に対する評価の大方を占めていたのだ。要するに彼女もやはり、「子どもらしからぬ」という言い方の反転で「子ども扱いされていた」のであった。その年齢とは無関係に彼女の「才能」が評価されるようになるまで、彼女がいかに苦労を重ねてきたことか。いや、もしかしたら未だにそれは変わってないのかもしれない。これは大変残念なことである。
 逆に、たとえそれが「平凡な才能」にすぎなかったとしても、その才能の発揮された時期がたまたま「早熟と見なされる年代」にあたったとしたならば、いやむしろそうであったがゆえに、「天才・神童」などと持ち上げられ、もてはやされる一時期があったとしても、結局いずれは訪れる彼の成熟が、その才能の凡庸さに追いついてしまい、その凡庸さが露わになることによって、彼に冠せられたその「非凡」という称号は、非情にも剥奪されてしまうことになるのだろう。こういった悲劇もまた、われわれはこれまで幾度となく目撃してきたのではないだろうか。

 そもそも「早熟であること」というのは、実は全く「子どもらしくない」ものなのである。しかしその早熟に照準する視線は、まさに「子どもらしさを見出そうとする視線そのもの」なのだ。そしてそこで求められる早熟さとはすなわち、「子どもらしく早熟であること」であるのに他ならない。
 しかしもちろん子どもの方も、ただ単に「子ども扱いされることの一方的な被害者」にとどまっているわけではない。大人たちからの子ども扱いにむしろ居直って、その求められている子どもらしさを「求められるままに振る舞っている」のもまた、彼ら子ども自身なのだ。彼らは、大人からさかのぼって見出された子どもらしさを、「自分自身でもさかのぼって見出している」のである。要するに彼らの内面には「すでに大人がいる」のだ。その意味で彼らは「すでに子どもではない」のである。その上でなおかつ、彼らの中で大人に対置された「彼ら自身の子どもらしさ」を、彼らは「いかにも子どもらしく」生きているわけだ。そのように、「自ら意識して、未熟で欠如した存在として生きる」彼らは、やはり実際のところ全く「子どもらしくない」のである。

〈つづく〉

◎引用・参照
※1 イリッチ「脱学校の社会」東・小澤訳


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