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9月の論理〈中編〉

第111話

(↓前編)

前回は、
「レギュラー・イレギュラー論」「理には適えど意には適わぬ」
「ヲモルーカ」「あれほどではない」と
「シグナルミーン」「物語」「はじまりの終わりと終わりのはじまり」
について触れました。

達成状況

それでは続きから。
行くぞ。


「享受(謳歌)」

これも「物語」同様、前提のようなもので、
私は、今の自分の恵まれた境遇を実感し、存分に行使したいと
常に考えている。

↑この回の最後の方に分かりやすい例が書いてある。

私、よく思うんですよ。
JKの生脚をまじまじと見れるのって高校生の今だけで、
大人になったとき、絶対「もっと享受しておけばよかった」って思うんだろうな
って。

第89話より

キモい例だが一番分かりやすい。
このように、
私には、今の境遇を最大限に享受したいという思いがあるのだ。

「享受」という言葉が分かりにくいなら、
「青春を謳歌する」の「謳歌」でもいい。ここでは同義語。

また、自分の現状を美化するという点で、
「享受(謳歌)」の話と前回の「物語」は似ていると言える。

「飽和」

その第89話や花火の一件(第99,100話)でも触れられているが、
はっきり言って私は現状を享受(謳歌)しきれていない。

この間も、
私の学校は自称進で高3は文化祭に出れず、休みの日となるのだが、
結局その日もだらけてしまった。
他の受験生と比べてアドバンテージとなるはずが、
享受できなかったのである。

このような結果や状態を、
溶質と溶かしきれない溶媒に見立てて
「飽和」と呼ぶ。

「飽和」→「自己存在」

これは極論ではあるが、
「飽和」は「自己存在」の否定にも繋がる。

さっきの例をそのまま用いるなら、
溶質をこれ以上溶かせない溶媒は溶媒の意義を失っている
ということである。

だからといって"死にたい"とかには繋がらないが、
私の境遇をもっと享受できる他人に譲渡できたらな、とは思う。

「後退史観」

「進歩史観」とは
時間(歴史)が進むにつれて人類は進歩していくという時間の見方。
これは現代文の知識。

対して、こちらは造語、「後退史観」では
時間が進むにつれて退化・衰退していくということになるが、
あくまで対象は私ひとり。

今更だが、私が書いていている哲学のようなものの対象は自分。
少なくとも自分ひとりには当てはまることを書いている。
読者のあなたに当てはまるかなんて知ったこっちゃない。

話を戻す。

ここ最近、境遇を享受できずに飽和を感じているのだが、
昔は飽和してなかったな、と。
昔に比べて今の自分はどこか劣っているな、
そしてこれからも衰退していくんだろうな、と思った。
このような自分の歴史の見方が「後退史観」。

まだまだピチピチの18歳なのだがな。


「生産性」→「行為」→「自己存在」

このあたりは、第106,108話でも書いたので手短に。

「生産性否定」→「行為否定」→「自己存在否定」という流れ。

頭の中では考えているけど物としては出来上がっておらずに時間が経ったとき、
その時点では生産性は0である(生産性否定)。

実際には考えるという過程を経ていて物の完成にも近づいているはずなのだが、
気を抜くと、生産性否定につられて
その時間におけるその行為(考えること)は無駄だったと思ってしまう(行為否定)。

さらに、その行為をした"過去の自分"の否定にも繋がる(自己存在否定)。

「建設的・破壊的」

行為否定をしてしまうときの私は、
考えるといった目に見えないプロセスを認めない
「破壊的」であると言える。

対して、目に見えないプロセスも、完成・成功に確かに近づいていると信じて
認めるのが「建設的態度」である。

目に見えない、生み出されるより前の段階のものについては、
8月の『捻出の神秘』にて触れられている。

「過去への憐み」

過去の自分の判断が間違っていたとき、
これも生産性が0のときにあたるのだが、
そんなとき私は、"過去の自分"に申し訳ない、と思う。
これが、「過去への憐み」の気持ち。

この気持ちの表れの一つが私のnote投稿。
何も生まれなかったら「何も生まれなかった」と書けばいい。
そうすれば、過去の行為および過去の自分は救われる(=否定されない)。


今回はここまで。

最後まで読んでいただきありがとうございました。



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