9月の論理〈前編〉
第110話
今月考えたことをマインドマップにまとめてみたんで
まずはそちら↓をご覧ください。
今回はこれを解説します。
ついてきてください。
「レギュラー・イレギュラー論」
長い夏休みははっきり言って"不幸"だった。
その"不幸"の原因を長期休みの"イレギュラーさ"と見て、
学校のあるレギュラーの日々を幸福とする考え。
8月では花火のような刺激的で瞬間的なものに憧れていたが、
それとは反対の立場。
「理には適えど意には適わぬ」
「レギュラー・イレギュラー論」によって
瞬間的に力をいれるものよりコツコツとした努力の方が善とされた。
しかし実際は
コツコツとした努力を理性じゃないほう(=意)が嫌い、
そう上手くはいかなかった。
これを一例とした、
このような現象の総称が「理には適えど意には適わぬ」。
noteの記事のタイトルにもなっている。
「あれほどではない」「ヲモルーカ」
ある日の学校終わり、塾へ行くべきとき、
でも精神的に行く気が起きなかった。
じゃああのベンチで休もうか。あそこの緑道行こうか。
それらは、かつて精神が病んだときに来た場所。
あの時ほど病んでないな、と思った。(=「あれほどではない」)
また、たとえかつての程病んだとしても、
もうそこからの立ち直り方を知っている。
何度病んでも戻ってこれる。
一見イレギュラーである"病み"をも
レギュラールートに組み込むこと(ルートの一部化)が
できるのでは? というのが「ヲモルーカ」。
「シグナルミーン」
マインドマップ中央。
正式名称は「What does the signal mean?(その信号は何を意味する?)」。
ある日の朝礼直後、先生に、放課後応接室に来るよう言われた。
指定校推薦の校内選抜の合否が言い渡されるに違いないと思った。
否が出たら、その大学を一般選抜で頑張ろうと思うだろう。
実際、7月の模試でその大学はC判定と丁度良い。
ところが合が出ても、それは校内選抜での合格であって、
大学側で面接をしたのち、12月に最終の合否が出る。
そこで落ちる場合もあるので、一般に向けての勉強は引き続きする。
合の信号であれ否の信号であれ、私は同じ意味を
都合良く解釈するんだろうな、と思った。
この一件の名称や、類似した出来事の形容が「シグナルミーン」。
「物語」
私は自分の人生を物語として捉えている。
(これは今月考えたことではなく、もはや前提だが、
便宜上マインドマップには書かせてもらった。)
そのため、物語の"流れ"、
すなわち前後関係・因果関係に重きを置いている。
これは「シグナルミーン」の考えと似ている。
こういうことがあった→その信号からはこう読み取れた
→こういうことに繋がった
というふうな"流れ"なのだ。
「はじまりの終わりと終わりのはじまり」
「物語」発信の場としてnoteを位置付けているわけだが、
そんなnoteの記事が、9月1日、第100話を迎えた。
生活も忙しくなることだろうし、
第101話以降のnoteのあり方を考えることにした。
↑この記事は考えた結果であって、この記事には書かれていないのですが、
あり方の一つに、
第1話〜第100話を「はじまり」とし、第100話は「はじまりの終わり」と。
そして第101話以降は「終わりのはじまり編(?)」みたいなのにしよう、
というのがあった。
そういえば、第1クールの曲『夜明けの朝』にて
「最後のはじまり」と言っていたな。
「もう終わりは来ない」という意味なのだろう。
「最後のはじまり」は言い換えるなら
「はじまりの終わり」か?「終わりのはじまり」か?
「の」って難しくないか?
……
などといった一連の思考を「はじまりの終わりと終わりのはじまり」と呼ぶ。
今思えばこれも「シグナルミーン」である。
「第100話」と「8月と9月の境目」というシグナルを
どう解釈するかに苦慮していたのだ。
こりゃ前・中・後編必要ですね。
前編はここまでとします。
最後まで読んでいただきありがとうございました。