
「火定」 澤田瞳子
「己のために行ったことはみな、己の命とともに消え失せる。じゃが、他人のためになしたことは、たとえ自らが死んでもその者とともにこの世に留まり、わしの生きた証となってくれよう。」
「火定」 澤田瞳子
「火定」とは「修行者が自ら火中に身を投じて、無我の境地に入る」ことなのだそうです。
天平9年、奈良時代の平城京において疫病が大流行し、パンデミックが起こりました。
当時の日本の総人口の約3割、100万人以上(推定)が亡くなったと言われています。今の新型コロナウイルスのような非常事態が起こったのです。
聖武天皇の治世、力を持っていた新興貴族の藤原4兄弟は、左大臣であった長屋王を自害に追い込み、権力を手中にしました。
しかし
藤原4兄弟を謗(そし)る声が大きくなり、藤原氏は4兄弟の妹の光明皇后を慈悲深い存在に祭り上げました。
光明皇后発願による令外官の施薬院(せやくいん)・悲田院(ひでんいん)を創設することになったのです。
天平9年、その施薬院(病院)で、遣新羅使によりもたらされた疫病の感染が拡大、医療崩壊が起こりました。
そんな渦中で施薬院の医者たちは、無我の境地で施術にあたりました。命を救えないとわかっていても誠心誠意、患者に尽くしました。
疫病は瞬く間に蔓延し、ついには権力者・藤原4兄弟までも亡くなってしまうのです。
政治的クライシスが起こります。
危機的状況下で、民衆に大混乱が起こります。
絶望の中で、命を救おうと立ち向かう医者と施薬院の人たちの物語「火定」。(現在の新型コロナウイルスに立ち向かっている医療関係者を彷彿とさせます。)
この物語は、2人の医療に携わる男の心の葛藤が描かれています。
名代(なしろ)と諸男(もろお)
施薬院の官人である名代は、できるだけ早く施薬院の仕事を辞めようと考えていました。この仕事が嫌で厭で仕方がなかったのです。
そのとき
平城京に疫病が大流行します。
パンデミックが起こりました。
遣新羅使から感染が拡大した天然痘により、感染者はあっという間に高熱が出て、その後、体中に腫物(はれもの)ができ、元の容貌はおろか、年齢・性別さえもわからなくなり、亡くなってしまうのでした。
名代(なしろ)は、医者の綱手(つなで)の志・「人命を救うことが己の生きる意義」とする彼の行動を目の当たりにしました。
しだいに、命をかけて人のために尽くす真剣な姿を見て、名代は使命感を持つのでした。
綱手は言います。
「よいか。疫病に罹り、もはや快癒の見込みがないとしても、この者たちはみな生きたいと望み、足掻いておる。
ならばわしらはその願いを容れ、少しでもみなが命長らえるよう努めるのみじゃ」「己のために行ったことはみな、己の命とともに消え失せる。
じゃが、他人のためになしたことは、たとえ自らが死んでもその者とともにこの世に留まり、わしの生きた証となってくれよう。」
名代は、綱手や疫病で犠牲になった悲田院の子どもたち、多くの救えなかった患者から教えられるのです。
死の前に無力である人々に向き合うためにこそ、施薬院は在るのだ。
諸男(もろお)はかつて皇室の侍医でありましたが、同僚に陥れられ、罪を押し付けられました。
結果、獄囚となり地獄のような環境の中、ただ生きているというだけの日々に厭世感を持ち、医師としての矜持も失い、ただただ世の中を恨みました。
獄を出た後、獄中で顔見知りになった
宇須(うず)の「悪意」に加担します。
それは
「偽りの神」の「偽物の札」を作り、「病に効く」と世に吹聴してお札を売りさばくというもの。
「常世常虫さまのご託宣だ」と言いながら、彼らは民衆の不安に乗じて大儲けするのでした。
しだいに、お札に効果がないと喚く者が出てくると、宇須らは過激になり悪意を新羅人にすり替えます。
世に恨みを持つ宇須や諸男は「この国が滅べばいい!」と考え、混乱を起こすため大声で喧伝します。
「新羅の神を追い払え!!」
「そうすれば疫病の流行が収まる!!」
と叫び、扇動し、民衆は急激に暴徒化してゆきます。
はじめは新羅人だけを狙うはずがいつのまにか、京のすべての外国人がターゲットにされました。差別が巻き起こりました。
そして、施薬院が襲撃されます。
施薬院で懸命に患者を診ていた波斯国(ペルシア)の密翳(みつえい)も狙われました。
密翳は捉えられ、縄で縛られ、馬で引きずり回され、殺されてしまいます。
病気だけでなく、差別・悪意までもが蔓延し、恐怖が襲います。
もはや暴徒化を止めることはできません。
施薬院の外では怪我人が続出しています。
それでも施薬院の医師・綱手(つなで)は、施薬院を襲って怪我を負った人たちの治療をします。自分たちを襲った敵であってもです。
命がけで人の命を守ろうとしている名代や綱手を見た諸男は、医者としての矜持を取り戻してゆくのです。
天平時代のパンデミックの中で
利己的になる人間。
利他的になる人間。
懸命に病に立ち向かう人間。
病から逃れようとする人間。
それはとても顕著で、それは両極端に振り切れていました。
この本は天平時代の話でしたが、現在の新型コロナウイルスのパンデミックに酷似していると思いました。
人の行動は、いつの時代も根底は同じであると。それ故に、学ぶべき素晴らしい言葉がたくさんありました。
人はみな、自らの存在に限りあることを知っている。それゆえに世の者は誰しも己の求めるものを追い、その生を充実させんともがくものだ。
ならば人はいま生きるがゆえに、いつか死ぬのではない。
いつか死ぬがゆえにそれまでの短い生を輝かせるのであり、いわば人を真に生かしているものは、いずれ訪れる死なのではないか。
澤田瞳子さんの言葉に触れていると、日本人で良かったと何度も思いました。
美しく、綺麗で流麗で、風景や風や匂いまでも漂ってきて、太陽や月の輝きまで網膜のスクリーンに映し出されました。何度も、何度も反芻してかみしめたい言葉でした。
私たちは今、苦しい時期に立ち向かっています。でも必ず乗り越えることができます。
たとえどんな病が都を襲ったとしても、自分たちは再びもがき、苦しみながら、それに立ち向かうだろう。
人の醜さを、愚かしさを目のあたりにしながらも、それでも生きることの意義と、無数の死の向こうにある生の輝きを信じ続けるだろう。
【出典】
「火定」 澤田瞳子 PHP研究所