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「コンビニ人間」 村田沙耶香
「身体の中にコンビニの『声』が流れてきて、止まらないんです。私はこの声を聴くために生まれてきたんです」
「コンビニ人間」 村田沙耶香
人は人として絶対にやってはいけないことがあります。
瀬戸内寂聴さんは、こう語っています。
人を殺すのは悪い、盗むのは悪い、
嘘をつくのは悪い。
これは仏教で言えば戒律です。
「人間として、絶対に、してはいけない」
ことなのです。
人間である証拠のバッジのような
きまりなのです。
「してはいけない」ということが、
人間には初めからあるのです。
人をいじめたらいけないのです。
今政治家は嘘ばかりついて
おりますけども、嘘をついては
いけない。盗んではいけない。
屁理屈など、なにも要りません。
「してはいけないのよ」ではなく
「するな」と言うべきことなのです。
その人間としての戒律以外、いろんな
生き方、考え方、価値観があって当然です。
しかし
人は「普通」という価値観で人を
縛ってはいないでしょうか?
前々からずっと考えていたこと
でもありました。この物語を読んで
さらに深く考えさせられました。
コンビニのアルバイト歴18年の古倉恵子は、36歳 。コンビニ以外で仕事をした経験がありません。
男性とおつきあいした経験もありません。いや、そんなことに興味も湧かないようです。女性がよくする友だちとのおしゃべりや、ファッションのことにもまったく無関心。
だから
惠子はコンビニ店員の女性のしゃべり方を真似したり、コンビニ店員の女性のファッションを真似したり、妹の助言に耳を傾けたりして、独自に世間一般の「普通」を演じました。
そうしてなんとか、社会に棲んでいる。コンビニの仕事以外はとくに興味がなく、コンビニを通してしか社会とつながれない。
つまり
コンビニという世界でしか彼女は人間として生きていけない。まさに「コンビニ人間」だったのです。
恵子は子どもの頃、他の人と考えることが大きく違っていて、家族や周囲を驚かせていました。
はたから見ると「普通」という感覚を持ち合わせていませんでした。
コンビニ店員としては、とても優秀です。
コンビニと一体化しているかのようです。
店内の微妙な音や、お客さんの行動をすばやく察知しました。次に起こることが瞬時に予測できて、すぐに身体が反応しました。彼女は最高のコンビニ店員さんでした。
「気が付いたんです。私は人間である以上にコンビニ店員なんです。
人間としていびつでも、たとえ食べて行けなくてのたれ死んでも、そのことから逃れられないんです。
私の細胞全部が、コンビニのために存在しているんです」
「普通」ではない異質な白羽という男性が、恵子の働くコンビニにアルバイトで入ってきました。
恵子のようによく働く店員ではなく、コンビニが好きでもなく、働くことを否定しているような厭世的で、まったく社会やルールを無視したかのような異質な人間でした。
彼は恵子のように「普通」を模倣したり演じることはしませんでした。
社会はそんな彼を許しません。
白羽はすぐにコンビニを辞めることになりました。
なんと
それから恵子が自分の家で白羽を飼うことになるのです。
この世の中では「普通」という不可思議が、形をいびつに変えながら心の中に寄生し、それが少しでも違うとなると異質が入り込んだと感知します。いつでも攻撃、排除しようとします。
しかし
その普通は、感心するものなのか?
憧れるほど素晴らしいものなのか?
その普通は、空虚なものではないのか?
だから人は彷徨っているのではないか?
僕はあちら側に行ったり、こちら側に
戻ったり、本の行間の中を彷徨いました。
この物語を読んでいると、「普通」、「一般的」だと考えられているものが虚しく映りました。
恵子はただただ凛としていて、
コンビニを愛している。ぶれない。
「身体の中にコンビニの『声』が流れてきて、止まらないんです。私はこの声を聴くために生まれてきたんです」
「普通」でいると、人の視線を気にしないですむので楽なのかもしれない。まわりに振り廻されずにすむのかもしれない。
しかし
自分の住みやすい空間を放棄してよいのか?
それは苦しい生き方ではないのか?
お互いを尊重し、配慮し、生きやすい道を模索しながら、しっかりとその道を踏みしめてゆく! その勇気をもたなければいけない!
疑問の刃が深く深く突きつけられ、えぐられる感覚が余韻として残った作品でありました。
第155回芥川賞受賞
【出典】
「コンビニ人間」 村田沙耶香 文藝春秋