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「トカトントン」 太宰治
「真の思想は、叡智よりも勇気を必要とするものです。」
「トカトントン」 太宰治 「ヴィヨンの妻」より
あるとき、どからともなく
トカトントン、トカトントン
とハッキリとした音ではなく、意識の奥底から湧いて出るような感じでその音が聞こえてきたような気がしたのです。
若い時にこの話を読んで以来、太宰治の本はあまり読んでいないのですが、この「トカトントン」が意識の奥底で燻っているのでしょう。時折この話を思い出すことがあるのです。
時の周期で虚無的な思考になっていたのでしょうか? どこからともなくトカトントン、トカトントンと聞こえたような気がしたので、太宰治の「トカトントン」を久しぶりに読んでみました。
◇
拝啓。
一つだけ教えてください。
困っているのです。
26歳の「私」は、小さな花屋の次男として生まれ育ちます。横浜で事務員を、そして、千葉で軍隊へ入隊。無条件降伏後、郷里(青森)へと戻り、郵便局に勤めます。
そうしてそれから
「日ましにくだらない人間になっていく」
そんな気になった「私」は、「どうしたらいいか? 困っている」という相談の手紙を、同郷の作家(太宰だと思われる)に宛てて送ったのです。
「困っている」という音が最初に聞こえてきたのが
昭和20年8月15日の玉音放送。
日本がアメリカに降伏。
敗戦。
私は虚無感に襲われ、「死のう」と思います。
その時です。
金づちで釘を打つ音が幽かに聞こえました。
トカトントン、トカトントンと
その音を聞くと、それまでの虚無感が一瞬のうちに消えてしまったのです。
その後
私は、郷里の郵便局に勤めながら小説を書きました。
いよいよ完成間近。「完成したらその作家に送って読んでもらおう」、そう思い銭湯でお湯に温まりながら最後の章の結び方を考えていると、また聞こえてきたのです。
トカトントンと。
またもや興奮が冷め、気力を失った私は、原稿用紙を毎日の鼻紙にしてしまいました。
それからも
郵便局で懸命に働けば
トカトントン
恋をすれば
トカトントン
政治運動、社会運動
トカトントン
スポーツすると
トカトントン
もう、この頃では、あのトカトントンが、いよいよ頻繁に聞え、新聞をひろげて、新憲法を一条一条熟読しようとすると、トカトントン、
局の人事に就いて伯父から相談を掛けられ、名案がふっと胸に浮かんでも、トカトントン、
あなたの小説を読もうとしても、トカトントン、
こないだこの部落に火事があって起きて火事場に駆けつけようとして、トカトントン、
伯父のお相手で、晩ごはんの時お酒を飲んで、もう少し飲んでみようかと思って、トカトントン、
もう気が狂ってしまっているのではなかろうかと思って、これもトカトントン、
自殺を考えトカトントン。
何かをしようとすると、最後の詰めのところで幽かに聞こえてくる、トカトントンという音。
教えて下さい。この音は、なんでしょう。
そうして、この音からのがれるには、どうしたらいいのでしょう。
この手紙のしめくくりには、こんなことを書いています。
こんな手紙を書く、つまらなさ。それでも我慢してとにかく、これだけ書きました。そうして、あんまりつまらないから、やけになってウソばっかり書いたような気がします。
(中略)
しかし、トカトントンだけは、ウソでないようです。
読みかえさず、このままお送り致します。
敬具。
この手紙に作家はこう返信します。
拝復。
気取った苦悩ですね。
僕は、あまり同情してはいないんですよ。
十指の指差すところ、十目の見るところの、いかなる弁明も成立しない醜態を、君はまだ避けているようですね。
真の思想は、叡智よりも勇気を必要とするものです。(後略)
◇
なぜかこんなことを思いました。
失敗したくない。
失敗するくらいなら行動しない。
結果を気にしてしまうと、
一歩も進めなくなる。
結局
何も為し得ずに終わってしまう。
あきらめてしまう。
「たとえすべてが壊れても、一歩踏み出す勇気を持ってごらんなさい」と、まるで、自分に宛てられた返信であるかのように思いました。
真の思想は、叡智よりも勇気を必要とするものです。
【出典】
「トカトントン」 太宰治 「ヴィヨンの妻」より 新潮文庫