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「いま、この時を生きる」ピダハン族について

仏教では、何事にもとらわれないこと、執着を捨てることを大切にしています。

じゃあ私たちが何にとらわれているかというと、自分自身であったり、生きることであったり、モノであったり他人であったりします。
また、私たちがとらわれているものは他にもあります。

それは「言葉」です。

「言葉」にとらわれるとはどういうことでしょうか?

例えば嫌いな人がいたとします。

「嫌い」という感情は形あるもの、実在するものではありません。
モヤモヤと形なく心のなかに漂う感情に「嫌い」という言葉を結びつけているだけです。
しかし、実在しないその感情に「嫌い」という言葉でラベルを与えることで、まるで本当に形があるもののように感じられるのです。

ラベル化された感情はとても強い力を持つようになり、その言葉にとらわれてしまうことがあります。
「嫌い」だと一度ハッキリ認識した人に対して、その感情を取り除くのが難しいことは、想像に難くないでしょう。

小学生の時などに気になる異性がいて、その気になるという感情が「好き」なんだと気づいた瞬間から相手のことが好きでたまらない気持ちになった人もいるのではないでしょうか。
これも言葉がもつ力だと思います。

現実には存在しない概念や感情にラベルをつけることができる「言葉」はとても便利ですが、形の無いあやふやものをハッキリと存在するかのように錯覚させてしまう危険性もあります。

と言われても、やはりピンとこない方がほとんどだと思います。

それは当然の話で、言葉を使って生活をしていてそんな小難しいことを考えることはないでしょうし、何も疑問に思わないのが当たり前だからです。

しかし、そんな当たり前を実は当たり前じゃないんだと気づかせてくれる本があったので紹介したいと思います。

☆ ☆ ☆

ピダハン族とは、アマゾン熱帯雨林に住む少数民族です。

作者のダニエル・L・エヴェレットは言語学者であり、キリスト教の伝道師でもあります。
この本は言語学に関する本ですが、作者の旅行譚として読んでも面白いです。

作者のエヴェレットはピダハン族の村に滞在して彼らの言葉を学び、聖書を翻訳してキリスト教を広めるために村に訪れたのでした。

しかし、ピダハン族の言葉を学ぶ中で彼らの言葉がとても特殊であることに気づいていきます。

  • 左右を表す言葉がない。

  • 色を表現する言葉がない。

  • 過去や未来を表す言葉がない。

  • あいさつや感謝や謝罪を表す言葉がない

  • 数を表す言葉がない。

  • 再帰性(言葉の入れ子構造)がない

私たちにとって当たり前のように感じられる言葉が存在しないなんて、彼らはどうやって生活しているんだろう?と不思議に思いますよね。

しかし、ピダハン族はそれらの言葉がなくても困らないのです。

例えば、左右を表す言葉の代わりに彼らは「川」を基準にして方向を示すのだそうです。
川の上流や下流、川に向かって、川から離れて、などの言葉で方向を示します。
ピダハン族は川のすぐそばで生活をしているので、みんな川の位置を完全に把握しているのです。

考えてみると、左右は自分からみた相対的な方向でしかありません。
「その箱を右側に置いといて」
「右ってどっち?私から見て?それともあなたから見て?」
そんなやりとりをしたことがある人は多いと思います。

ピダハン族はジャングルで狩猟などをして生活をしているので、獲物をみつけてそんな悠長なやりとりをしていたら獲物に逃げられてしまうでしょう。

「川」を原点にしてそこからの絶対的な方向で示すほうが間違いがなく、彼らにとって合理的なのだろうと思います。

左右という言葉一つとっても、ピダハン族の世界が私たちの世界とはまったく異なるのだということが分かるのではないでしょうか。


村で一緒に暮らしてピダハン族の価値観を学んでいくなかで、エヴェレットは彼らの世界の根底にあるものに気づきます。

それはピダハン族の世界は「直接体験」に基づいているということです。

ピダハン族は、語るもののほとんどが自分が目撃したものか、直接の目撃者から聞いたことに限られています。

「あったこともない誰か」の話をピダハン族は信じないし、そのような話をそもそも彼らは求めていないのです。

エヴェレットは聖書をピダハン語に翻訳して布教しようとしますが、ピダハン族はだれも受け入れません。

あるピダハン族の男が、聖書の話をするエヴェレットに対していいます。

「なあ、そのイエスという男を見たこともないのに、どうしてその男のいうことを信じているんだ?」


直接体験したものしか話さず、過去や未来の話もしない。

ピダハン族はなんて現実的で狭い価値観の中に住んでいるのだろうと思われるかもしれません。

しかし、作者のエヴェレットはピダハン族はいつも笑顔にあふれていて、知る限りでこれ以上幸せそうに見える民族は他にいないと言います。

また、彼らの世界はけっして狭いわけではありません。
例えばピダハンにとって寝ている間にみる夢の世界は彼らにとっての「直接体験」であるため、存在するものです。
そして、夢の世界にでてくる精霊は彼らにとって本当に存在するものであり、現実世界においても森の中などに精霊は現れるようです。


直接体験したものしか話さず、過去や未来の話もしない。
それは、「今、この時をいきる」ことだと言えるかもしれません。
「今、この時をいきる」ことは禅の根底にある精神といえます。

ピダハン族が「今、この時をいきる」人たちであることが感じられるようなエピソードが本に書かれていました。

あるとき、川で水浴した後に川から上がってくるエヴェレットを見て、ピダハン族が真剣な顔で話し合っていました。
あれは川に入っていったのとおなじ人間か?それとも精霊なのか?


また、ピダハン族は精霊から名前をもらうことがありますが、あたらしい名前をもらった人はその前とは別の人間になるといいます。

ピダハン族にとってはある人物が1分後に同じ人間である保証はないのです。

ピダハン族は他人や、そして自分自身でさえ変化をしつづけていて1秒でも同じ時がないことを自然と理解している人たちなのかもしれませんね。

☆ ☆ ☆

仏教では何事にもとらわれないことを法話の中で繰り返し説いたりしますが、そもそも私たちは何かにとらわれている自覚すること自体が難しかったりします。

なぜ難しいかというと、「とらわれていること」が何かを分かるためには「とらわれていないこと」が何かを知る必要があるからです。

日本のことを深く理解するためには外国のことを知る必要があるように、何かをわかるためには「そうではない何か」を知る必要があるのです。

私たちが当たり前のように存在すると思っている言葉も、ピダハン族のように異なる世界の中では存在しなかったりします。

そのことに気づくと私たちが執着している様々なこと、モノや他人、過去や未来、自分自身ですら実にあやふやなものだと感じられるかもしれませんね。

ピダハン族は自分たちのことを「まっすぐな民」、外部の人たちを「ひねくれ頭」と呼ぶそうです。

私たちが今からまっすぐな頭になることは難しいでしょうが、ピダハン族のような生き方に、学ぶところは多いのではないかと思います。

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