映画評 クワイエット・プレイス DAY1🇺🇸
音に反応して人間を襲う“何か”から身を守るために、沈黙を守って生き延びる『クワイエット・プレイス』のシリーズ第3作。ニューヨークを舞台に、“何か”が地球に襲来した最初の日を描く。
飼い猫のフロドとともにニューヨークに暮らす余命少ないサミラ(ルピタ・ニョンゴ)。そんなある日、突如として空から多数の隕石が降り注ぎ、隕石とともに襲来した凶暴な“何か”が人々を無差別に襲い始める。瓦礫の山となった街の中を逃げ惑うサミラは、路地裏に身を隠して息をひそめていたエリック(ジョセフ・ケイン)という男性とともにニューヨークからの脱出を試みる。
『クワイエット・プレイス』の設定はただ一つ。「絶対に音を立ててはならないこと」。このシンプルな設定を軸に、過去のホラー映画やモンスター映画のオマージュ、斬新なアイデアを駆使したホラー演出が特色のシリーズだ。
前2作は田舎街を舞台としているが、本作は大都会ニューヨークが舞台。”何か”が地球に降ってきた発端の街だ。「音を立ててはならない」設定に加え、初めて見る”何か”に翻弄される初見さと、周りを見渡せば大勢の人がいる都会の舞台性が見事に融合できた。
大勢の人がいれば、その分比例して”何か”の数も増える。つまり、音を少しでも出して仕舞えば襲われるリスクが高まる緊張感が本作の魅力といえよう。それでも音を出さないように気をつけてるも、人が集まってしまえば必然的に音が大きくなる。案の定音が大きくなり”何か”が空から大量に降ってくる『宇宙戦争』オマージュには恐怖でしかない。
本作はシリーズのレガシーを守りつつ、スペクタルホラーとして一本の映画に昇華することができたと評価できる。
家族を軸とした人間ドラマもシリーズの特色と言える。前2作は両親が子供を”何か”から守りつつ、”何か”がいない場所を目指すストーリーであった。”何か”と対峙する過程で、家族が抱える過去のトラウトと向き合い、壊れかけていた絆を取り戻すドラマとして描かれていた。
しかし、過去二作は自分勝手な行動をとって他者を必要以上に巻き込んだり、自ら危険に足を踏み入れるお頭の弱さにイライラさせられる。特にミリセント・シモンズ演じるリーガンは見ていられないほどの自己中心ぶり。一作目だけならともかく、二作目も同様の行動を取るため、全く成長してないどころか、とあるキャラクターの死さえも無駄になる。家族が家族を危険に貶める後味の悪さを残す。
本作の最大の美点はリーガンのようにムカつくキャラクターが1人もいないことにある。そういう意味ではシリーズ最高傑作を更新した。
話を戻すと本作は家族がテーマではないが、その分”生きる”ことへの執着が見られた。余命わずかのサミラは死ぬ前に思い出の地へと赴くために、”何か”からの奇襲を逃れ続ける生への執念には勇気を貰える。いつ死んでも良いと投げやりになっていた彼女の180度人が変わったかのような変化は、人間死ぬ前には何かを成し遂げたかったり、悔いのない終わり方をしたくなるものなのだろう。
正直、エリックがついてくるのは謎ではあるのだが、思い出の地で2人が取る行動には見て惚れ惚れする。ことシーンを見るために、怖さと向き合って良かったと確実に思えるに違いない。