映画評 蛇の道🇫🇷🇯🇵🇧🇪🇱🇺
『岸辺の旅』『スパイの妻』の黒沢清監督が 1998年に手がけた同名映画を全編フランスロケ&フランス語でセルフリメイク。
8歳の愛娘を何者かに惨殺された父親アルベール・バシュレは、偶然知り合った精神科医・新島小夜子(柴咲コウ)の助けを借りながら、犯人を突き止めて復讐を果たすべく殺意を燃やしていた。やがて2人はとある財団の関係者たちを拉致し、次第に真相が明らかになっていくが。
娘が誘拐・殺害され、復讐に燃える父親が見ず知らずの謎の人物のサポートを受けて復讐に挑む基本的なストーリー展開は1998年のオリジナル版と同じではあるが、オリジナル版をゆうに超えるセルフリメイクとして大成功を収めた。
主演を務めた柴咲コウが冷徹で素晴らしい。オリジナル版では哀川翔が務めており悲しい気持ちを抑えるために強がっていた雰囲気が漂い、若干の控えめさと軽さがあった。一方で、柴咲コウは内面から滲み出る冷徹さが殺戮マシーンかのような人格を形成する。
すぐ感情的になるアルベールと違い、表情を一切変えずに事務的に淡々と非人道的行為を遂行する。まるで最初から決めていたことであるかのように。サスペンスとして緊張感に包まれた映画に昇華することに貢献した。
役者の顔がハッキリと見えるように演出を変えたのも緊張感のある映画に生まれ変わった要因の一つ。オリジナル版では若干離れたところから撮影されており、画面通り舞台的で起きてる現象を俯瞰するしかなかった。しかし、役者の顔がハッキリ見れるようになってからは、人の尊厳を踏み躙る暴力の悍ましさ、暴力を振るわれた時又は暴力を振るう際の人間の哀れで醜い表情に、いい意味で目を背けたくなる。
セルフリメイクに合わせて追加されたオリジナル要素が人が負った心の傷がどのように人格を変えていくのか、フランスらしい哲学的な映画に昇華できたのも高評価。
柴咲コウが務めてる精神科に患者として通う吉村(西島秀俊)が鍵となる。一見ストーリーとは無関係に見えるやり取りだが、人の苦しみは一生涯続いていくことを暗示する。「終わり?何が終わるんです?本当に苦しいのは終わらないことでしょ」。機械的な新島が見せた一瞬の緩みから、彼女もまた傷つき、人生における生きる目的論を復讐に宿す虚しさが垣間見える。そして吉村の最期は逆説的解放の皮肉の示唆。
そして日本に住んでいる新島の夫(青木崇高)と新島がスカイプで会話をするシーン。よそよそしい態度を見せる夫とは裏腹に機械的な対応。そして驚愕のラストシーン。新島の復讐心に歯止めが効かず新たな負の連鎖を想像させる。
セルフリメイクする意義にも繋がり内容を強固なものにする。アルベールが廃墟で見た映像は、過去に自分自身が犯した罪でありながら負った心の傷。つまり映像というメディアを用いて表す、人が心の中に負った傷は現在進行形で進み侵食していく残酷さのメタファーだ。
そして心の傷は憎悪として拡散し負の連鎖を引き起こす。本作の終盤の廃墟での銃撃戦は、負の連鎖によって形成された世界の成れの果てで行われる、さらなる負の連鎖。後に次回作『Cloud クラウド』にも繋がっていく。キャストを変え舞台を変えてのセルフリメイクは、負の連鎖は延々に続き海を超えて共通する普遍的なものなのかもしれない。そして唯一負の連鎖を終わらせる方法は吉村の最期であることは皮肉かもしれない。