『ノルウェイの森』を読んでいなかった
村上春樹の『ノルウェイの森』はとっくの昔に読んだものと思っていたが、実は通読していないことに気が付いた。
それで改めて読んでみると、これがべらぼうに面白い。良いところを挙げていくとキリが無いのだが、好きな点を2点ここで書いてみたい。
1. 客観的な事実が分からない構造
読んでいる最中はあまり意識しないのだが、本作は「僕」の手記という体裁を取っている。
そして本作中、この手記の内容を裏付ける客観的な事情はほとんど書かれないため、読者は「僕」の手記の真実性を確かめることができない。
極端な話、直子や緑が実在するのかどうかすら、読者には確かめようがないのである。
まして手記の登場人物が話す内容については、それが真実かどうかを確かめる術は無い。ネット上では「レイコが中学生の教え子に迫られたと話すのは虚言であろう」とする解釈が人気だが、これはこうした構造を受けたものである。
こうした客観的な事実が分からない構造は、本作の解釈を著しく困難にする。あらゆる解釈が可能になる一方で、「ここは間違いなく事実である」というポイントが無いため、これぞという解釈もすぐに指の間をすり抜けていってしまうのだ。
2. 異様なラストシーン
「直子との約束を守るため」に手記を書き始めた「僕」だが、その手記のラストは異様である。
直子との約束とは、「私のことをいつまでも忘れないで。私が存在していたことを覚えていて」というものである。この趣旨を貫徹するのであれば、緑に愛を告白する上記の記述は不要であるばかりか、むしろ有害である。
この矛盾について整合性を図ろうとすれば、たとえば以下のような解釈があり得るだろう。
① 手記の目的が途中で変わり、「僕」が緑を愛するに至った経緯を書き記すものになった。(上記記述の「僕」は20歳の「僕」である)
② 手記はレイコとの別れまでで終わっており、上記記述の「僕」は37歳の「僕」である。
ここではおそらく意図的にどちらとでも取れる書き方をしている。その効果は抜群で、「僕」と読者は、手記を書き〔読み〕終えたにもかかわらず、回想を始めた「ハンブルク空港」に戻ることを許されない。
回想(1970年)と現実(1987年)の狭間で宙吊りとなった「僕」と読者は、「僕は今どこにいるのだ?」と自問し続けるのだ。