
[怪獣少年時代]Vol.4ゼッケン親父vs浜野先生「おまえよう見たな!」野田と小説共作
幡代小学校4,5,6年の浜野先生のクラスでの出来事は、今でも我々クラスメートたちに強烈な記憶なり感情なりを遺していて、集まって喋ると大いに盛り上がるが、コレ我が家の話も含めて映画のネタにはならないか?と前から考えていたところ、ふと怪獣を絡めたらカタチになるのではと思いつき、いざ書き出したら記憶の洪水がジャジャジャジャ!!と押し寄せ氾濫・・・でもそうすると別に僕って特に「怪獣少年」て訳じゃなかったじゃん、という気もしてきて・・・あ、いや、まだ『ウルトラQ』も始まってないもんね。
浜野先生がウチに家庭訪問に来たのは、まだ4年の1学期、担任になって間もない時期のことだが、僕の心はすでに先生の軍門に降っていた気がする。
昼休みに「金子、今日終わったら、お前のウチに行くからな、案内してくれ」と先生から言われ、びっくり。
通常の家庭訪問かと思っていたら、後に事情を知ったら“ヤクザの殴り込み”みたいなものだった。ヤクザは違うか、サムライか・・・
学校からの帰り道、先生と並んで歩くとハイな気持ちになったが、特に緊張はせず、多少は喋ったが、暫くの沈黙もあった。
家に帰ると父が既に帰宅していて和服を着ていて、難しい顔で腕を組んでいる。
母が二人にお茶を出して僕に「1時間くらい外行ってたら」と言う。
なにしろ、3畳の食堂兼台所(ダイニングキッチンとは呼べない)と四畳半の居間兼寝室(リビングとは呼べない)しかない。
大人同士の話はどこにいても筒抜けになってしまう。
外で何していたかは覚えてないが、帰って来ると父と先生はかなり打ち解けている様子で、食事の用意が出来ていて、日本酒も呑んでいる。
しかも、二人とも相手を「おまえ」呼ばわりしている。ケンカではなく大声で笑い上機嫌。
この時、父41歳、先生29歳。
浜野「俺は、修介がいちばん楽しみなんだ」
父「ほう、そりゃあ、うれしいな。おまえは、子供と一緒に遊んでいるみたいなもんだな」
浜野「(立ち上がって父を指差し)よう見た!おまえ、よう見たな!」
父「そうだろ。まあ、もう一杯いけよ」
二人とも酔っ払っているので先に寝た。
昭和63年刊濱野敏明著「言葉葛篭(ことばつづらかご)」(自費出版)より、「この組に、金子修介がいた。彼は偏食の傾向があり給食が嫌いだった。
前担任は、何故か彼を自由にさせていた。私は、好き嫌いを許さなかったので、彼にとって大分苦痛だったようである。
ある日、この金子の父親が、一冊の本を持たせて来たのである。
その本は、ある地方の学校での、学年通信の実践をまとめたものだった。
彼の父親はある団体の役員ということだった。
せっかく届けてくれたものだから、私も全部目を通したのだが、後書きを読んでびっくりした。なんと、修介のことが書いてあるのである。しかも、学校の担任のために、近頃子供の様子が変わったというのである。食事の自由を奪われているのは、学校と刑務所だけだと言うのである。
正直私も頭にきた。たまたま同僚の一人が、彼と同じ団体に属していたので、早速それを見せてみた。
同僚のつてで、やがて金子氏と会見することになった。勤務が終わってから、彼の自宅を訪問したのであるが、最初は堅い表情を崩さなかった。
しかし、教育についての私なりの所見を述べているうちに、次第に和やかな雰囲気となり、しまいには、お互いに酒を汲み交わすようになったのである。
その主義こそ違え、人間同士として大いに共鳴しあうことができ、後、彼は積極的な支持や協力をおくってくれたものである。
いささか面はゆいが、後日修介に「昭和の吉田松陰は元気か」とまで言ってくれたものである」
これは、確かに高校生くらいの時のクラス会に行く時に、父が「昭和の吉田松陰は元気か、と伝えてやってくれよ」と言った。サムライ同士やね。
前回は1学期の初日から先生が怖いから給食を完食して即好き嫌いが治ったと書いたが、「たのしい日記1965」をめくってみると、その後何回も「給食がまずい」「ミルクがまずい」「もういやだ」「学校に行きたくない」「ミルクをこっそりすてた」「人工かぜで休みたい」と書いてある・・・
完全に記憶が捏造〜美化されていたんですね。
ウチで結構、憂鬱そうに給食と浜野先生の文句を言ってたのね。それを父は、組合の機関紙で「学校と刑務所には食事の自由がない」なんて書いたのを先生に見せて僕に援護射撃してくれたんだな。
カド徳のあだ名を持つ父なんで、スグそういうキャッチーな強い表現をしてケンカする。
でも、この殴り込みの頃には、僕はもう先生への心酔が始まっていたようだ。
記憶と記録の齟齬という意味では、この4月5日に、父は「アメリカはベトナムから出て行け」というゼッケンを着けて出勤を始めた(金子徳好著『ゼッケン8年』)。それがクラス替えの前日だったという記憶は無いし、日記にも書いてない。それほど驚くようなことではなく、父にしては普通のことをやっているように思えたからだった。
ベトナム戦争が激化して、アメリカは北ベトナムを爆撃し始めた。北爆という。
これは多くの日本人にとって、つい20年前に受けた第二次世界大戦、大空襲の記憶を呼び覚ますものだった。
しかも、爆撃機は日本の基地から飛び立っている。
ベトナムでは僧侶が焼身自殺で抗議した。
自分も何か行動出来ないかと考えて、酒の席で仲間に「明日からゼッケンをつけて抗議の通勤をする」と言ったはいいが酔いが覚めたら気持ちが萎え、家に帰って反対してくれるだろうと思った妻が「やりなさいよ」と言ってミシンでゼッケンを作ってくれたんだ、というのは父の定番の話で、書いたり、講演したりしていた。
僕も「がんばって」と言って家から送り出した。本当にがんばって欲しいと思った。往復の通勤電車でも着け、アメリカのベトナム撤退まで8年続け、僕が高校2年の時にゼッケンは外された。
母が外してあげている瞬間の写真付き記事が朝日新聞に載った。
後年、脳梗塞をやって気弱になって別人のようになってしまった父が亡くなる少し前に取材され「修ちゃんが、がんばってと言ってくれたから、やれたんだよ」と言って泣いたのを見た。
ゼッケンに「がんばって」と言ってくれる息子が、ブタの餌と同じ脱脂粉乳を飲まされて食事の自由を奪われていると思い、学校の権威主義にいっちょ言ったるか、というところだったのだろう。
言われた浜野先生は、学校を刑務所と一緒にするな、と怒鳴り込んだが、左翼と右翼で酒を酌み交わす仲となった・・・
4月頃は、まだ世間的には騒がれていなかったが、後に「木島則夫モーニングショー」にもゼッケン着けて出演するなど、ゼッケンデモは有名になっていった。
たまに絡んでくる右翼っぽい輩もいたらしい。
が、僕が学校で誰かに何か言われたことはない。からかわれたとかも全くない。
社会全体的に、父の行動は普通に支持されているのだろうという感覚を持っていた。
浜野先生の本にも、特に触れられてはいない。と言うか、浜野先生は「自称右翼」だ。「おれは右翼だ」と言っていたし、黒板に「愛国心」と書いて授業したこともある。
ということで、「右翼」も「左翼」も似たようなもんだなと思うようになっていった。
4年の最初の頃は、まだ、そこまではいってないが・・・
空が気持ち良く晴れ、校庭に誰もいないのを見ると、先生は授業をやめて野球をやるぞ、と皆を表に出して、自分も一緒に野球をやった。
そのうちアウンの呼吸というか、前の方の席に座っている議長の遠藤が、「空が晴れてますねえ、校庭、誰もいないですねえ」と言うと、ニヤっとした先生「なにが言いたい」遠藤「もうすぐ2組と試合があるんで、練習した方がいいんじゃないですか」先生「よし、おまえら、勝つんだな」遠藤「勝ちます!」先生「よし、表に出ろ」全員「ハイっ!!」
ということが何度もあった。
女子は校庭の隅でドッジボールするか応援するかと選択出来ることになっていた記憶だが、女子のことの記憶は自信ない・・・
ポジションは、有無を言わせず先生が決めてチーム編成し、二軍まであった。
野田は2軍のキャッチャーだった。遠藤は1軍のファースト。
僕は、クラス1の美男子であり大人しい性格で勉強出来る坂西くんと二人でスコアラーを任命され、スコアブックを買い(経費出たっけ?)、スコアの付け方を学習して毎回試合に臨んだ。
それまではあまり野球自体に興味がない人生を送っていて長嶋も王も良く知らないできたが、スコアラーの仕事で野球のルールはしっかり分かるようになり、ゲームの面白さも理解する素地が作られた。
頼まれたわけではないが、低学年の時に培った「替え歌」技能を応用し「3組野球応援歌」を作った。
元歌はあまり知られていない『サブマリン707』の主題歌で、ソノシートでしか売られていない。
ソノシートとはビニール製のEP大レコード版で音質は落ちるが、人気マンガやテレビの「ラジオドラマ」風と主題歌が聴けて見開き10ページのカラー冊子が読めて300円はまあ納得価格。
『サブマリン707』は「少年サンデー」連載中の小沢さとるの人気潜水艦漫画だが、TVになるほどの人気ではなかったようでソノシートだけでの主題歌があったので、知っている人は少ないから、それを替え歌にしてあたかもオリジナル曲を作ったかのように皆に思わせた。
「♪浮上潜心 右舷の彼方 銀のクルスは十字星」は
「♪青い空に でっかい夢を もっていこうぜ四年生」と替え、
「♪七つの海 ぼくらの庭 その肩に海の平和」は
「♪ぼくらのナイン 希望のナイン いつまでも打っていこう」と替え、
そして「♪艦長速水 ぼく健太!」は「♪監督はまの ぼく矢口!」と替えた。
矢口くんは低学年から一緒にあがったが、運動神経抜群で3番サードに抜擢されてヒットも打つし華麗な守備プレーを見せ、もう一人矢口がいたのでヒロオさんと呼ばれて皆から尊敬を集めた。
2番は「監督はまの ぼく星野」で、後に全校の健康優良児となる星野くんは4番レフトでホームランバッターでありホッチキスと呼ばれ、周囲に気を使う人柄で児童会長になるなど人望が厚かった。
そして「♪707 707 ゆくぞ海洋遊撃隊」は、
「♪4年の3 4年の3 ゆくぞ ぼくらは野球狂」と替えた。
『野球狂の詩』が描かれたのは相当後年だから、どこから「野球狂」なんて言葉が出てきたのか謎だ。
だが、2組との試合は、9回、後に転校して幡代を去ってゆく8番ライト奥野くんの落球によって決勝点を奪われ、負けた。
試合後、先生は、奥野くん一人を厳しくノックしてシゴいた。相当、厳しかった。奥野くんは、砂場で倒れても立ち上がり、間近からのノックに耐えていた。
「くやしいか、くやしいだろ、ほら!」とノックは続いた。
先生は感情的になっているように見えた。
が、我々の当時の解釈は「先生は、こうやって厳しく指導する姿を我々に見せて、何かを教えてくれようとしている」と緊張して見守っていた。
でも、やっぱり子供と同じ気持ちになって、というより子供より2組に負けたのが悔しくて感情的になっていただけだろう、と60年後に解釈変更。
その時の自分の感情は言葉に出来なかったが、今なら、教育的指導的安心感はなく、自分がシゴかれる立場じゃなくて良かったよという恐怖心で見つめていた、と、やっと言葉に出来たわ。
その砂場で先生が立ち会いでのケンカがあったという記憶を確かめようと「たのしい日記」をめくると、10月25日、マンガ付きで描かれてある。
「今日はけんかがあったよ。野田さんとミッチーさん、奥野さんの2対1だよ。
ミッチーが野田のことをわるくちいったらしい。『野田はO野さんがすきだ』ていったんだ。それで頭にきたらしい。先生がたちあってよ野田のかちさ」
O野さんは美少女と言うより美少女を超えて大人ぽく清楚な美人という表現がふさわしい。常に姿勢よくシュッとしていて吉永小百合の妹みたいな感じだ。細身のツインテールで勉強も出来る優等生で浜野先生の教えを忠実に守っているような発言が素敵で皆から尊敬されていた。
そのO野さんの顔が描かれ、線で「赤くなっている」表現をして「二人の話を聞いてまっかになったO野、ポーッ」とキャプションを入れ、野田と奥野の戦いが漫画化されていて、「ツルツルテンのドッピー」とまとめられている。
確か、ゲンコツで顔を殴るのは禁じ手だったはず。
野田は国語の教科書にも序盤が載っていた夏目漱石の『坊ちゃん』が好きで、浜野先生と坊ちゃんを重ね合わせていたのだろうか、それは分からないが、坊ちゃんのように正義感がとても強く、いい加減なことが嫌いだった。僕以上に、というか、クラスで一番浜野先生に心酔していたと思う。遠藤とは、どちらが一番弟子なのか張り合っていたのではないか。
彼のウチへ行った時、書棚に文庫本が隙間なくビッチリ並べられていたのに衝撃を受けた。主に新潮文庫だ。こんなに読書してるのか!と焦ったら、いや、実はこれはお兄ちゃんのものだ、と言うので少し安心した。新潮文庫は★一つ50円で安くて優れているという話をした。
どういう流れか一緒に小説を書いてみようぜ、ということになって、ウチに来てもらい交互に分担して「太郎と次郎」という小説をB6版のノートに書いた。
挿絵は僕が描いた。労働者の息子と金持ちの息子の友情物語を考えたが、最初の設定だけして展開しないまま、いつか面白いはずの続きを作ろうと思いながら日々の創作活動に忙殺され手付かずとなり、世に出ていない(他の友達には読ませていない)まま、机の上にいつまでも置かれていた。
この頃、僕はマンガばっかりではなく、小説も書かないとならないみたいな気がして両方書いていたが、コンドルクラブをネコメプロと改名し(白土三平が赤目プロというのを作っていたから)(ネコメプロのネコはカネコのネコ)、クラスが別れた渡辺くんと小沢くんもスタッフということにしていて、許諾は取らないで表紙に僕も含めた「金子修介、野田秀樹、小沢万記、渡辺洋」4人の名前を並べたら、僕以外の3人が皆東大に行く未来になった。
「太郎と次郎」は未発表だったが、その後、僕は単独で他の小説を発行し、宝石文庫と名付けた。宝石文庫では、ノベルだけでなく、このレーベルでムック本も発行し、6年生末頃に怪獣辞典「ベムニカ」を発行することになる。
「ベムニカ」以外の小説は、あまり他のクラスメートには見せておらず、そろそろ転校してくる鈴木和道くんにだけ読ませて批評してもらった。
野田には「鉄腕アトムクラブ」にも入ろうぜ、と誘って一緒に応募したのだが、応募した月で「鉄腕アトムクラブ」は終了してしまって、入会金を切手で350円同封していたのが、まるまる返って来た。
アトムのシールや、「ジャングル大帝」のアニメのセル、明治のマーブルチョコなども景品で付いていたからちょっとラッキーではあった。
アトムクラブブックには、アトムと手塚さんが並んでお詫びをしている絵があった。雑誌COMの創刊準備をするためだったのだ。
この話を野田は生前の手塚さんに話す機会があったとのことで、「それは申し訳ないことをしましたね」と手塚先生、手塚治虫全集300巻を野田に送った、という・・・誘ったのは僕なのに、チェッ、チェッだ・・・
濱野敏明「言葉葛篭」では・・・
「野田秀樹も、この組にいた。彼は小さな身体ながらなかなかのきかん気の強い子であった。
頭の回転もよく、成績もわるくはなかったが、あまり努力家ではなかった。
彼の兄貴が、着実な努力家であったことが、或いは彼の抵抗精神を刺激していたのかも知れない。
彼は中学で、生徒会に熱中するなど彼らしい活動を展開していた。
やがて東大に合格し通っていたが、六年間を演劇に没頭するあまり、遂に中退した。
彼は在学中から劇団を主宰し、現代の若者達に熱烈な支持を受けている。夢の遊眠社、これが彼の劇団である。
野田の処女出版の後書きに、小学校時代、変人教師に変人教育を受け変人となった。と、書いてあったそうだが、変人教師としては、以て瞑すべきか・・・」
僕のことも前述の吉田松陰の後に「そんないきさつから修介もキャンプの常連になったのである。彼、金子修介は、学芸大学を出ながら、映画の道に入り、現在若手監督として活躍している」
と書かれている。浜野先生も学芸大学。
浜野先生に心酔していた我々や野田は、クラスメートそれぞれ温度差があるけれど高校3年頃になって徐々に催眠術が解けるかのように「あの頃ってなんだったんだ?」と思うようになり、高校を卒業した春のクラス会で、誰かが先生の結婚の噂を揶揄するような発言(言った本人はめでたいことと思って他意は無かったはずだ)があったことをきっかけに先生が怒って(結婚出来ない事情までは我々には分かりようがないから何故怒ったか分からないまま)先に帰ってしまったが、クラス会は楽しく続き、この時に話されたのではないが、次は「はまのを呼ばないクラス会をやろう」と・・・「はまの」と呼び捨てに最初に言ったのは野田だったか? なんというか、禁断を破った感じで僕も「はまの」と呼び捨てにしてみたが、怖くなって次は先生を付けた。
そして何回かは先生を呼ばないクラス会が続き、大学4年の夏休みの先生抜きのクラス会では、その後野田がウチに来たり、何人かでヒロオさんのウチに行ったりして、1週間クラス会みたいな酒宴が続いたのであった・・・
そういえば野田は小学校では「総理大臣になりたい」と言ってたな・・・
僕は、この頃は「新聞記者」になりたいと言っていた。
「マンガ家」というのは、リアルな希望像になっていかなかった。
が、「たのしい日記」のマンガを見ると、急速に石森章太郎の影響が濃くなっている。12月25日には2学期の通信簿の先生の所見をそのまま書き写していて・・・
「今日は、ゴッホン、ブッフン、えへへへへ、つうしんぼえへ・・・もらったのえへへ・・・社と図が4で、あとのはぜんぶ3だった。見所のところは『最近マンガにこっているようだが、テスト用紙にまでマンガをかくのはどうかな?テスト用紙でなく、本当の君の作品をみせてください』てかかれた。テストにマンガをかくのは3年のとき、ばりばりやっていたんだがなあ、でも1学期の方がマンガにこってたと思ったんだけどなあ・・・はいく→つうしんぼ 4がふたつで さがむっつ りゅうこうご ドレミレシェーッ」
まだ、この時期には始まっていなかったが、新しいマンガ雑誌を買ったら、学校に持って来て、先生の机の上に置いておく、という「しきたり」が5年生くらいで出来た。先生に真っ先に読んでもらう、ということだ。
「おまえたちが何を読んでいるか、知る必要がある」
と仰っていたが、自習時間とかに教壇に足を乗せ、そっくり返って読んでいた。「先生はマンガが好きなんだよね」と言う子もいたが、僕は“本当に義務感で研究のつもりで読んでいらっしゃるんだ、それは浅い見方に過ぎない”と思っていたが、術が解けた今では、やっぱり面白いものだけ読んで楽しんでいたのだろう、と思いマス。
石森章太郎の『サイボーグ009』は、「少年サンデー」と「少年マガジン」の大メジャー誌に比べると格落ちの「少年キング」に連載されていた。
64年7月に連載開始、僕は初期の頃は知らないで、途中から床屋でだけでしか読めず、面白いのに本格的なストーリーを把握出来なかったが、人気が出たからであろう、初回から1ヶ月ぶんくらいをまとめた特集号が古本屋に出て、読んでやっと把握したら、こんなに良く出来たストーリーだったのかと興奮し、懸命に読み込んだ。
兵器産業の集合体であるブラックゴースト団が、武器を売るために戦争を起こしているという設定がリアルで、宇宙でも戦える兵士を作るために、世界のあちこちから半端者をさらって改造人間=サイボーグにしたが、試作品である00ナンバーサイボーグたちが、ブラックゴーストの企みを知ったギルモア博士の指導により、反乱を起こして脱走。
そこに新たに目覚めた009が加わる、という展開がすごい、ワクワクする。
混血児の009はかつて不良で少年院に入っていた島村ジョウが、少年院から脱走するところをブラックゴーストにさらわれて改造された、という設定も好き。
鉄腕アトムが、いくら21世紀の未来の話とは言え、完全なロボットがこんなに人間的であるのは少し科学的ではないのではないかと思い始めていたところ、元々人間の悩みを抱えていた少年が、改造されて兵器になる、という残酷さも含んだ物語に心を奪われ、石森章太郎に傾倒し出した。
手塚治虫は石森の師匠だから別格になっていった。
その後、石森章太郎は『マンガ家入門』という本を出して、これにも大いに影響を受けた。
石森は、マンガが上手くなりたければ、たくさん映画を見ろ、マンガは映画からテクニックを受け継いでいるのだ、と口がすっぱくなるくらい強調していたのだった。
石森章太郎と師匠である手塚治虫との関係、トキワ荘に集まって来た藤子不二雄ふたりや赤塚不二夫たちとの関係などが、徐々に理解されてゆき、次第に自分とクラスメートたちとの関係と、無意識に重ねていた気がする。
ぼんやりとした空想だが、マンガ家になった僕と、小説家になった野田と、他のクラスメート何人かと共同生活をしている・・・というような。
だが、職業としてマンガ家を目指すという気持ちにはなっていない。
議長は、学級会で半年に一回の選挙で交代することになっていた。
10月5日の「たのしい日記」
「今日はぎ長のえんどうを、おとしたきねんすべき日だ10月5日えんどうめんしょくきねんび。へへへざっまあみやがれ」
「ばんニャーイ」とメガネの僕が両手をあげてグルグルまわっているマンガが描かれている。
何故、遠藤をそんなふうに書いたのか思い出せない。
ケンカしたり理不尽なことを言われた覚えもない。
ただ理屈っぽく話している姿の彼は笑っていない。
でも嫌いだという感情もなく、むしろ感情の記憶は好きかも知れない。
小学校正門前の薬局の息子で、特に金持ちというわけでもない。
「きのうたべた でっかいテキ」
という詩を彼が黒板に書いて、何のことか分からないが聞けなかった。
テキとはビフテキの略だと後で知ったが、ビフテキ=ビーフステーキも、食べたことが無かったので意味がわかるまで結構かかった。
遠藤以外、ビフテキを「テキ」と呼ぶ人間に会ったことはない。
でも、それで遠藤を議長から落としたかった訳じゃないでしょ。
推測するに、遠藤はクラスのリーダーになりたかったが、さほどのリーダーシップはなく、リーダーシップの実力あった野田は、リーダーになるより浜野先生の一番弟子を目指す姿勢があり、そこには皆共感出来て、その雰囲気によって、なんとなく遠藤を敵視してしまった・・・ということでは・・・?
10月26日
「今日は、けんかのおもかげはなかったヨ ぎ長だんの中の新人、ヒロオさんとH波さんがやったんだ。ヒロオのまとめかたはうまくないね」
「なにかぎだいーありませんか?」とヒロオさんが言っている脇で、H波さんがえらそうに座っているマンガが描かれているが、H波さんは極めて美人に大人っぽく描かれている。
H波さんは低学年の時から一緒で、活発でいわゆるオテンバ娘ふうのショートヘアであったが、4年になって急激にキレイになった気がして、男子から見ると、女子のリーダーではないかと目されていた。
女子だけで姉妹ごっこをしていて、H波さんが長女で、以下のヒエラルキーは分からなかったが、おキョウがH波さんを「お姉ちゃん!、お姉ちゃん!」と呼んでいたのは良く覚えている。
H波、O野、M本が「クラスの三大美人」と呼ばれ、おキョウを忘れたわけではないが、3人は他のクラスでも噂されるほどに目立ち、6年生の頃には、他のクラスの男子がちょくちょく顔を見に来ていた。
「なにしに来たんだよ」と聞いたら「3大美人の顔を見にきたんだ」と照れもなく言っている奴(低学年で一緒だった)がいた。「そんなに美人か?」「美人だよ美人、お前らめぐまれてるよ」
僕が批評的見地で「H波は松原智恵子に似ている」と言ったのがH波さんに伝わって、何故か逆に怒られた記憶があるが、「H波さんが、男子で1番顔がいいのが坂西さんで、2番目は金子さんだと言ってたよ」と誰かに言われたが、本人に確かめるのは怖かったので確かめていない、60年間・・・
to be continued…