【Text 2016】ヒロシマからフクシマ、制作することで自分のルーツに還る体験のこと
この記事は過去の展覧会(2016年)に合わせて記したものを再編集した。
『呼吸する影―被爆樹木と「被曝樹木」のフォトグラム―』
ーBreathing Shadow of Bombed Trees and Radiated Treesー
2016年8月17日(水)〜27日(土)
11:00-18:00(日曜休廊・最終日16:00まで)
●展覧会について
2012年から継続して制作し5年目を迎えるフォトグラムの作品シリーズ『呼吸する影』の新作を含めた作品展を開催します。
ヒロシマにある「被爆樹木(Bombed tree)」を、太陽を光源として直接、感光紙やデジタルセンサーに焼き付けたフォトグラム(カメラを使わずに撮った写真やその手法)に加え、今年から始まった新たな試みである、福島、千葉、埼玉の「被曝樹木」のワークも合わせて展示します。
現在の時間が直接、像として定着する作品を通して「今」について感じ、考え、対話できる時間となれば幸いです。
●展覧会開催までの経緯
地元の越谷では、ヒロシマの被爆樹木の作品発表は、2012年のKAPLで開催した個展以来発表となった。
2012年から継続して制作し5年目を迎えるフォトグラムの作品シリーズ『呼吸する影』の新作を含めた作品郡を東日本で展示するにあたり、2015年被爆70年の節目にヒロシマで2回の個展を開催してみえてきた、福島へのアプローチも試みた。それに加え、特措法(平成二十三年三月十一日に発生した東北地方太平洋沖地震に伴う原子力発電所の事故により放出された放射性物質による環境の汚染への対処に関する特別措置法、平成二十三年八月三十日法律第百十号)に定められた、埼玉県三郷市、吉川市、千葉県流山市の当時放射線量が高かった場所で制作した作品を加えた25点の作品を発表した。
福島に向かうきっかけとなったのは、2015年に広島で開催していた個展会場で出会ったある、アメリカの女性との対話だった。その女性はおじいさんがマンハッタン計画に関わっていた科学者で、その祖父との関係の深いヒロシマを研究し多くの人にインタビューの為、来日していた。その中で、gallery-Gで開催していた個展(2015.7/28-8/2)に足を運んでくれ、私にも、どのようにヒロシマの事を未来に繋いでいくかという事について話した。戦争を経験した世代の孫であるという共通の環境もあり、話は弾んだ。
その中で、「どうしてあなたはヒロシマに関わっているのか?」といった質問をされた。私は、その問いをうけて、制作の出発が3.11の経験であること、祖母が福島県川内村の出身であることなどが改めて大きな制作の動機であったことを実感し、この女性の様に祖母や村の人たちの話をしっかりと聞いてみたいと考えた。
そして「被爆樹木を撮影する動機について」改めて考え、以下を記した。
そして今年(2016年)。
福島、川内村へは、7/22-25に入り、祖母の親戚や現在除染作業に従事している方へ話を伺い、元原発で仕事をしていた伯父の命日に合わせて作品を制作した。伯父はあの日、原発で仕事をしていたが異変に気づき一命を取り止めた。その後、東京電力福島第一原子力発電所事故の影響により、全村が放射能汚染地域となった。2011年(平成23年)3月17日以降、仮役場を郡山市にあるビッグパレットふくしま内に設置。全村避難となった。
どういう風に村に残ったかは定かではないが、伯父は村に残り、毎日の村の様子をメモに残している。余震のこと、自衛隊の人が訪ねて来たこと、日々のこと...。伯父は腕のいい大工だったが仕事が減り、原発で仕事をしていた。とても優しく会いにいくと面白い冗談を言ってよく笑わせてくれる明るい伯父だった。筋骨隆々で逞しい姿は私の記憶に今も鮮明に焼き付いている。
その伯父は2013年に他界した。原因はよくわからない。
2016年(平成28年)6月14日に全域の避難指示を解除したが、伯父はその場所に戻ることはなかった。
上記2本の樹木の影を撮影し、今回の時間を記録したいと試みた。
親族で囲む夕食。久しぶりの再開の喜びとこれまでの事を共有し合い、あっという間に時間が過ぎていった。
昔の記憶にある静かな川内村と大きく変化していたのは、行き交うダンプカーの音だった。頻繁に大きな音と砂煙を巻き上げながら走り去っていく。
側道にはフレコンバックが積み上げられている。
「過去の記憶が現在に更新されることが怖くて、震災以降、昔住んでいた場所に戻ることに大きな抵抗があった」
宮城県名取市、閖上地区の制作に私を向かわせてくれた方が、かつて言っていた言葉を思い出した。
私も、今回の訪問により、震災前のあの穏やかで静かに感じられた村の記憶は一新された。
私にとってこの時間は自身の制作「記憶と時間の関係」について改めて振り返る機会となった。
その経験をもとにヒロシマへは、8/5-8/6に入った。
毎年制作している、8:15 8/6 の時間に、最も爆心地より近い、被爆樹木シダレヤナギの影をつかまえた。今年(2016年)はとても暑い日となった。クマゼミの声と鐘の音の中、黙祷をしながら露光をした。
ヒロシマにある「被爆樹木(Bombed tree)」を、太陽を光源として直接、感光紙ではなく、デジタルセンサーに焼き付けたフォトグラムの制作も行った。
それに加え、現在自分が住んでいる地域での撮影を試みた。
作品展を開催するにあたり、ヒロシマの被爆樹木を通して、8:15 8/6 1945が過去ではなく、現在進行形である事。また福島や現在特措法で定められた市町村は今もなお、3.11 2011が継続的であることを実感した。
そして、その「今」について、作品をみる人たちと共有する機会をつくることは、とても大切なことであると感じた。今後も継続して作品制作をしていきたいと考えている。
展覧会関連企画レポート:
●ワークショップ「影をつかまえる」
8/20(土)13:00-15:00【雨天の場合8/27(土)】
生憎の雨天で27日に実施。
雨天の為、サイアノタイプのワークは出来ず、ジアゾ感光紙でフォトグラムの制作を行った。作品制作を通して、フォトグラムの表現の面白さや、光を素材に制作することの可能性を共有した。
●ギャラリートーク:8/20(土)17:00-18:00
作家による作品の解説とゲストの櫻井さんとの対談。
ゲスト:
櫻井 裕 さん
プロフィール:1961年生まれ
土木技術者、ケーナ奏者、キリスト教徒
前 環境省浪江町担当除染等推進専門官
元 楢葉町建設課復興庁応援職員
最初に自己紹介をし、ヒロシマの作品について、今年から始まった福島、埼玉、千葉での制作について共有。
ヒロシマでのワークは、被爆樹木というあの日を経験した樹木が今も同じ時間を生きている事から、その時間をフォトグラムの方法でダイレクトに写しとる事で、「今」について改めて考えるきっかけになるのではないか。
ヒロシマでの制作を通して、自分の住んでいる地域に目を向けると、そこには未だに、原子力発電所の事故により飛散した放射性物質に対しての根本的な解決方法が見出せていない現実が見えてくる。
その現実に対しどのように考え、制作しているのか現時点での考えを中心に発表。
その後、前 環境省浪江町担当除染等推進専門官で元 楢葉町建設課復興庁応援職員である櫻井 裕さんから、除染の考え方や、方法、現場で感じた課題などを紹介。最後に、原発の事故後、人との関係や心そのものに大きな傷を与えてしまった事が一番の大きな事ではないかという印象深い言葉があった。
2016年8月現在、2011年3.11についての話題が少なくなって行く中、越谷市に近い、三郷市と吉川市は平成24年1月「特措法※」により「汚染状況調査地域」に(埼玉県では2市)指定され、未だに除染した汚染土等の処理の根本的な解決策が見出せていない現実がある。
今回制作で訪れた祖母の実家のある福島県川内村は、幼少期に訪れたときとほとんど村の景観に変化が無い様に感じられる中、汚染土を運ぶ大きなダンプカーが次々と狭い道を行き交っていた。
(※平成二十三年三月十一日に発生した東北地方太平洋沖地震に伴う原子力発電所の事故により放出された放射性物質による環境の汚染への対処に関する特別措置法)
作品展を通して、作品に囲まれた環境でのトークは、こうした現実へのまなざしを共有し、対話の場を生み出す事が出来ると考える。
この充実した時間を糧にさらに進んで行きたい。
Gallery:K
〒343-0821
埼玉県越谷市瓦曽根3-7-7小柳ビル3F
http://www.studiok-web.net/
TEL&FAX:048-947-9135
●関連リンク
クラウドファンディング
被爆樹木の写真展を広島で開き戦後70年の節目に平和を想う機会を
https://readyfor.jp/projects/Shadow-of-Bombed-Trees
最後になりましたが、今回の展覧会では、制作継続の為の寄付を行わせて頂き、19名からの厚い志を頂戴しました。ご寄付をしてくださった皆様、お忙しい中ご来場頂きました皆様、展覧会開催に多大なるご助力を頂きましたギャラリーKのオーナー様に、深く御礼申し上げます。