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今日は #わたしらしい働き方 というお題でつらつらと振り返り、note してみたいと思う。
そう。そもそも、僕自身のキャリアにおけるスタート地点は、自分で選択する余地がなかった。高校卒業後は大学受験を志したものの、バブル真っ最中の熱気に病んだうちの親は、国立の法学部、経済学部、医学部以外はクズでカスみたいな考え方を持っていて、それ以外の進路では授業料どころか受験料すら払わないと公言していたからだ。「大学を出る頃にバブルが崩壊したら、苦しむのは俺だ。責任取れるのか?」と言った僕に対し「それはあんたの問題で、あんたの人生だ」とダブルスタンダードを崩さない。
そして、僕は大学生活と引き換えに親の傀儡となるしかないという事実上の脅迫を回避する為、家を出るという選択をすることになる。
☆今までの人生はなかった
楽しかった中学・高校の日々は神様が先にくれたボーナス。
自分を無理やりに納得させて、何も持たずに社会へ身を投げた僕に手を差し伸べてくれたのが、小さな編集会社の社長さんだった。
給料はバイトも同然で、社保もない。でも、生きていく為に働き、その中で編集し、文章を書くというスキルを積み重ねていった。そして数年後、この会社が扱っていた【競馬】といジャンルで認められ、ノンフィクションの書き手としても知名度が上がっていき、編集長も任されるようになった。
が、好事魔多し、出る杭は打たれるの言葉通りに。
TV解説でも有名な人の良さそうなおじいさんのH氏が、僕を陥れようとまったくのでっちあげを作り、JRA(日本中央競馬会)から事情聴取で呼び出されることになったのがきっかけの一つ。内容としては、ざっくりトレーニングセンターで迷惑行為をしているという話だったのだが、H氏が主張したその日、その時間に僕が違う場所にいたことを証明することがたまたま容易だった。で、もちろんお咎めなしに。
ただ、この時期は嫌な事が重なった。フリー転進に失敗した前編集長Kが出戻る為に僕をこの小さな会社から追い出そうと画策したり、記者クラブがフリーランスや雑誌の取材者に嫌がらせをする案件が競馬場で多発する等もあった。当時の僕は気が滅入ってしまい、この業界から距離を取ろうと決めたのだった。
僕の退社決断を聞いた社長の手が震えていたのを見て申し訳なくも思ったが「なら経営者としてもう少しちゃんと守ってください」と感じたこともあり複雑な心持ちだった。その後はフリーランスになり、書く側から企画し、プロデュースする側へと移り、媒体も紙媒体からWeb媒体へと移っていった。
そして、コンテンツ企画のコンサルとなり、会社経営にも携わることにもなった。いい会社だったが、そこで半沢直樹ばりにメガバンクから「IT会社みたいな流行ものは信用できない。こちらの提案通りにさる大会社に吸収されるか、今すぐ融資を完済するか」という具合に迫られ、黒字倒産を選択することにもなった。
うん。こうして振り返り、普通に考えれば、編集長の地位をキープする為に、経営者としてのポジションを守るために、我慢や忍耐をすべきだと考える人が少なくないのも事実でしょう。大学だって入れる学部に入れば良かったという人もいる。なんで、わざわざ一番厳しい選択をするのかと。
☆でも、ですよ。
この選択の中にこそ、やはり譲れない価値観があり、譲れない仕事への向き合い方。働き方があったわけです。一つは、
・競争ではなく「共創」していきたいということ。
潰しあうようなゼロサムゲームではなくて、お互いを尊重し、よりよい社会、よりよい未来へと切磋琢磨する。そんな関係性の中にいたいということ。これは中高時代の水球選手として学んだことでもあるだろう。
自分の地位を脅かすと怖れ、台頭する才気あふれる若者を潰しに行くような人とは同じ空気を吸いたくないし、実力ではない政治力や根回しみたいなもので立ち回って相手のポジションを掠め取ろうとしたり、自己利益の為に脅したり、法を悪用して利益を我が物にする。
そんな人達とはさっと距離を置いて、自身のエネルギーや時間を自分が未来に向かっていく方向へ使っていきたいという事ですね。その意味でもう一つは、
・今日より明日、今年より来年と成長し変化する働き方
を望んでいるということ。20代の頃、僕はよく「大学行きたかったなぁ」と思う事しばしばでした。お金もないし、無理だからと人に相談するでもなく、個人的には時間を無為に過ごしていた感覚すらあります。
でもね、こうして今という視点から見てみると、その現状の中でもちょっとずついい方向へとあがいて、少しずつ実現させてきてはいたんですよ。そして、ずっと通してきたことは、
・人を大事に
ということです。こうやって酷い目にもあったりしてきましたが、それでもそっち側の騙し、欺き、人を不幸にする人々になることはありませんでした。そう考えると、東日本大震災の時もボランティアを大切にしないNPOや自治体とは距離を置いてきたことも自然な選択だったといえます。
そうではない。人と手を差し伸べあう「GIVE」の方にいるということ。そこに、自分は生まれついての価値観を持ってきていて、大切にしてきているのだと思います。
☆プロの対人支援者として
実際、その延長で今はこうして長野県伊那市に移住。小さな会社を作り、対人支援事業では県内外からもお仕事を頂き、観光まちづくりの顔としては、複合施設に訪れる地域内外の人々と交わり、シェアハウスに住む娘のような大学生達が気軽に訪れられる場所を育んでいます。
悪くないと思うし、今の自分だけを見る人がいれば、羨望や嫉妬のような感情を持つ人もいるだろうとも。でも、僕自身としては、遠回りしたなと感じる所も多々あります。
一つでも近道が出来ていたら今ここにはいないのですが、例えば10年以上前に「プロコーチに向いている」と薦めてくれた人がいたのに、その声に向き合おうとしませんでした。それは自分の世界が狭く、そして自身を過小評価していたからです。
大学の件もあとから同級生たちが「教養から専門に移る過程でワンチャンある」とチャンスを教えてくれましたが、最初にそのことを相談しなかった自分の人に頼まない、自分で抱え込む若さが選択肢を失わせていました。
ですので、次の世代。これからの人々には、もっと時短してもらえたらなと願ってやまないわけです。
相談できる家族のような誰かや本音で話せる友人に囲まれ、僕がこの年で辿り着いた場所に、20代、30代のうちにもう辿り着いてほしいと願っています。
もしそうなってくれたら、そのあとの時間を彼ら、彼女らがどう使い、どんな未来を創り上げていくのか。それを見るのが今からもう楽しみでしょうがないわけです。ですので、その意味での働き方としても、今最も大事にしている一つが
・ロールモデルとしてありたい
と思いますし、その想いが自らを行動させ、学ばせ続ける原動力にもなっています。ですので、働き方は、生き方、在り方の反映だと強く感じるのです。
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