進化Ⅱ(短編小説;2,700文字)
ギーギーッ。
二段ベッドの梯子だろう、木がきしむ音が聞こえた。それに続いて、緩慢だが重い物を引きずるような音が子供部屋から廊下、そしてトイレへと続いた。
( ── もう1週間経ったのね)
中に10分ほど籠った後、再び、きわめて緩慢にそれは部屋に戻って行った。
「さて、……食事をやるか」
ニンジンとセロリをスティック状に切って紙皿に盛り、子供部屋に持って行く。
部屋のドアを開けた途端、獣のにおいがむっと襲い掛かってきた。
モンステラ、ガジュマル、オーガスタ、エバーフレッシュ、……いくつもの観葉植物の鉢が置かれた中を進むと、薄暗い子供部屋に置かれた二段ベッドの上段から、垂れた眼窩に黒い目がふたつ、こちらを見下ろしていた。
「はい、ゴハンよ」
紙皿を顔の脇に置くと、それはきわめて緩慢に前肢を伸ばし ── 長く湾曲した爪でニンジンをつかみ、やはり緩慢に、牙がのぞいた口に持っていった。
近づくと、さらに臭い。1本1本が肉眼で確認できるほど太く長いその体毛の間を、茶系統の苔が覆っている。
その苔を食性としているのだろう、蛾か何かの幼虫なのか、無数の足を持つ虫がうごめいている。
「……ううっ!」
息を止めて、子供部屋を後にした。
── 私たち夫婦に、子供はいない。
夫が、いや、夫だった男が会社を辞めた、と言ったのは1年ほど前だった。
職場で不愉快なことが続いた上、与えられた仕事には将来性がないから、自営でwebライターを始めると言う。
どうして事前に相談をしてくれなかったの、となじったが、まあまあ、といつもの憎めない目つきだった。
退職後、彼は子供だった頃からの自分の部屋、つまり『子供部屋』に閉じこもった。両親は彼の高校時代に離婚し、それぞれ新しい配偶者を得て古い家を出ていた。
彼はたまに子供部屋から出て来ると、近くのホームセンターで観葉植物を買い、部屋に並べた。
webライターというのがどういう仕事なのか、私にはわからない。仕事というからには収入が得られるはずだが、夫はそれまでの貯金を崩し、観葉植物を買う金にあてているようだった。
子供部屋の『勉強机』でノートパソコンに向かって何ごとかしていた彼は、しかし、そのパソコンを開くこともなくなり、二段ベッドの上段で一日を過ごすようになった。
夫に兄弟はいない。なのになぜ二段ベッドなの、と尋ねたことがある。
「本当は、ツリーハウスに住みたかったんだ。でも、庭はほら、狭いだろ? だから、二段ベッドを買ってもらって、木の上に登って寝る、というシミュレーションで我慢したんだ」
失業保険が切れた後の夫は無収入だったが、私が小さな商社で事務員をしていたので、生活はなんとかなった。ただ、彼はトイレ以外、二段ベッドから降りてくることがほとんどなくなり、異臭を放つそのベッドに私が上がっていくことなどありえなかったから、彼との間に子供ができる可能性は無くなった。
── 夫が変貌するきっかけになった日は今も憶えている。
その日は期末仕事で残業しなければならなかった。夜9時過ぎに疲れ果て、空腹をかかえて真っ暗な家に帰りついた。
ダイニングに直行したが、夫に頼んでおいた夕食はテーブルになかった。風呂にも入りたかったが、昨夜湯を抜いたままの状態だった。
「ちょっと、あんた!」
子供部屋の二段ベッドに直行し、おそらく夫が勝手に退職して以来、初めて怒鳴った。
「仕事もしないでゴロゴロしているんだから、頼んだことぐらいやってよ! 夕食とお風呂、用意しておいてって言ったでしょ!」
真っ暗な部屋に返事はなく、ただ、二段ベッド上で何かがうごめく気配があるばかりだった。
「この……この……ナマケモノ!」
闇の中、大声で怒鳴ると、音を立ててドアを閉めた。
その翌日、彼は食事に降りて来なかった。私は気にとめず、用意した食事をテーブルに残し、仕事に出た。
夜帰宅すると、食事の皿から、サラダの一部、セロリとキャベツだけが消え、あとのパン、肉類、卵などは手がついていなかった。
(……体調でも悪いのかしら)
だとしたら、昨夜は言い過ぎたかも ── そう思いながら子供部屋に行くと、二段ベッド上の夫の顔は ── 以前から伸びている無精ひげとは明らかに異なる ── 剛毛に覆われていた。垂れたその目からも、白目部分が消えていた。
(ナ、マ、ケ……モノ……?)
言霊ってあるんだろうか?
……いやいや、私はただ、『怠け者!』と怒鳴っただけだった。
夫 ── いや、元・夫のそれの飼育に、大した世話は要らなかった。1日に1回、生野菜を少々食べさせれば済む。ほとんど動かないのでカロリーは要らない。1週間に1度だけ、二段ベッドから降りて、体を引きずるように床を這い、トイレで排尿と排便を済ませる。
変温動物らしく、冷暖房も必要ない。
ある時、職場の懇親会で隣に座った男の同僚が酔ってぼやくのを耳にした。
「いやあ、恥ずかしい話なんだけど、ウチの女房、ホント、怠け者なんだ」
弁当を持参する社員が多い中、彼はいつもコンビニの弁当か菓子パンで昼を済ませていた。
「奥さん、専業主婦なんでしょ?」
思わず、口をはさんだ。
「うーん。主婦以外の仕事はしていない。でも、主婦としての仕事もしないんだ。朝夕のメシの支度も、洗濯も掃除も、全部オレがやってる」
「へえ……じゃ、奥さん、何やってるの?」
「うーん、何やってるんだろう? ゴロゴロしてるだけだなあ。以前はテレビ見たりゲームしたりしてたけど、最近はロフト ── がリビングにあるんだけどね ── そこに上がって天窓からボーッと空見てるかな」
その女、使える ── 私は即座に思った。
「ねえ、……相談があるんだけど」
私は彼に体を寄せた。近くで見れば、悪い顔じゃない。ガタイもまあ ── 合格だ。齢はたしか、私よりふたつ上のはず。
「え? どうしたの?」
「奥さんについての相談なんだけど……ちょっとこの後、場所変えない?」
実は最近、ナマケモノの赤ちゃんの動画を見た。親とは似ても似つかぬその愛くるしい仕草に、心がしびれた。
それ以来、ナマケモノをただ『飼う』だけじゃなく、『繁殖』させたくてたまらなくなったのだ。
── しかし、それにはメスが必要だ。
「……ねえ、ちょっと試して欲しいことがあるのよ。奥さんが家のこと、何もしなくて頭にくること、あるでしょ? その時にね……」
〈了〉
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この短編は下記のかんやんさんの作品にインスパイアされて書き始めました:
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なお、それぞれ独立した物語ではありますが……