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『原作者』のひとり言

改めて経緯をたどることはしませんが、『原作者』と『原作改変』をめぐって悲しいできごとがありました。
いろいろな人がいろいろな事を書いたり言ったりしている。

下記は『原作者』を経験したことのある私の記憶を整理した忘備録のようなものです。
一般論的な記述になっているところもありますが、おそらく『原作者』と『原著』との関係に大きく依存しますので、一般論など存在せず、『ひとり言』ととらえてください。

『原作者』を経験したのは4回、すべて30代の頃、『原著』は小説で、2次媒体は映画が2回、テレビ(2時間単発)ドラマが2回でした。
私が地方在住のほぼ無名作家だったこともあり、完成脚本が送られてくるまでに『原作改変』についての連絡は電話での、ごく簡単なものでした。
「……という案が出ていますが、よろしいですよね?」
「……はあ……そうなんですか」
具体的にどう変わるのか、よくわかりません。
脚本が届いてようやく全貌がつかめます。その時点ではもう、配役などすべてが動き出しています。

映画その1では、家族構成が変わる、原作にない一家が登場するなどマイナーな変更の連絡を受けていましたが、完成作品をざっくり表現すれば、メインテーマが『金』から『愛』に変わっていました。

映画その2は、ほぼ『換骨奪胎』状態で、『原作』というより『原案』、そのこともあり、タイトルも変更されました。

これに対してテレビドラマは2作品とも、小説の雑誌掲載から制作・放映までの時間が短かったこともあり、原作にきわめて忠実でした。
自分の考えたセリフをTVの中の人物がほぼそのまま話すのは快感でした。ただ、自分を客観的な視聴者の場所に置いてみると ── 特に1作品は ── あまり面白くはなかった。

原作者は原作を愛しているので、映画化に伴うストーリー『改変』は愉快でなく、異なる著作物になってしまった、と哀しく感じました。

── しかし、その後、考え直します。

原作者は元の著作にはもちろん責任を持っていますが、別の媒体での作品の結果(売上だったり視聴率だったり)に対して責任を取ることはできないのです。
全責任は、映画プロデュースチームだったり、ドラマ制作チームにあります。彼らは劇場の入りが悪かったり、視聴率が取れなかったとしても、
「いやあ、原作が良くなかった」
とは言わないでしょう ── たぶん。
「(原作の選択も含め)責任を取るのは我々ですから」
と最初から思っています。
彼らもビジネスですから、やみくもにではなく、コスト的な制約の中で成功する方向に改変していきたい、というドライビング・フォースは強くあるはずです。

時間的制約の中で原作小説にきわめて忠実に制作されたテレビドラマ(のひとつ)がイマイチだったことも教訓となりました。
「まったく異なる媒体なんだ!」

そんな風に再考した私が確立した考え方は、

小説と映像作品はまったく異なる媒体である。
小説媒体では自分の作品ストーリーがベスト。
── でも、他の媒体ではそうではないかもしれない(おそらくそうではないだろう)。
そもそも客層audienceからして異なっている。
鑑賞時間も、鑑賞形態も異なっている。
その媒体の専門家に任せた方がいいし、こだわるならば、自分も制作に参加するしかない(私はしないけど)。

『原作者』としての考え

さて、── 話はここで終わりではありません。
(むしろ、始まり?)

『原作者/原作改変』問題であれこれ考え、上記のような結論に至ったのは、幸か不幸か、インターネット普及前の時代でした。

もし現代ならば、私は『原作改変』に対する不満を抱いた時点でSNSに書き込んだかもしれない。
それに誰かが『賛成』と反応し、映像制作者を「商業主義」と声高に非難したかもしれない。
別の誰かが『反対』と反応し、「思い上がるな」と私を罵倒したかもしれない。
私はまもなく考え直し、上記結論(『原作者』としての考え)に至ったかもしれないが、その時点ではもはや引っ込みがつかなくなっているかもしれない。
いや、正直に翻意を吐露したら、『賛成』者たちに裏切者扱いされたかもしれない……。

……というように、難しい時代を今、我々は生きているのですね。

『ひとり言』が伝播し、増幅される時代に生きているのですね。

問題の『本質』はむしろ、そこなのかもしれない ── と思うのです。

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