「日常」に近い情景を描きながら「非・日常」に連れていってくれる、そして、《もう、これが最後なんだ、もう、元には戻れない》ということが人生にはある、と想う、大林宣彦監督の「あした」
2020年に亡くなった大林宣彦監督は、故郷を舞台にした尾道三部作(転校生、時をかける少女、さびしんぼう)が有名だが、私が傑作と思うのは(全部観ているわけではないけれど)、
・異人たちとの夏(1988年)
・あした(1995年)
だと思う。前者は山田太一、後者は赤川次郎(今、どうしているのだろう?)の小説が原作だ。
私が「あした」を観たのは封切直後なので、前年に「再勉生活!」から帰国して間もなく、ということになる。
例によって、映画を観た直後に同好会向けに書いたエッセイを、ほぼそのまま再掲します。
(ネタバレあります!)
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日曜日の午前中にバスと地下鉄を乗り継いで今池の国際シネマに出かけた。毎日クルマで通勤しているので、休みの日はできるだけ運転しないようにしているのだ。
映画館には、なんと、客が12人しかいなかった。しかも、ほとんどが僕より年上のオジサンオバサンで、アベックはたった一組である。こりゃ、空いてていいわい、と中央あたりの席にどっかと腰を下ろしたが、それにしても、
(1)映画館に行くより、手軽なレンタルビデオ。
(2)行くとしても、野暮な田舎の劇場より、込み合った都心の映画館。
(3)貧乏くさい邦画より、金をふんだんに使った洋画大作。
という風潮の中で、田舎(今池は高校時代の遊び場で田舎とは思わないが)で日本製の映画を上映するのは大変に勇気が要る事だな、と思う。
ビデオやクルマのように便利な機械が普及したために、人々は自室や車室内に閉じこもるようになり、行きずりの他人と触れ合う機会はどんどん減っていくのであるな、と僕はケバだった赤い椅子の上で時代錯誤の溜め息をついた。
しかし、そんな事を思う僕を含めた12人の観客の前に始まった「あした」は、間違いなく、とても上質の映画だった。
沈没した連絡船と共に海に消えたひとりひとりと、それぞれドラマを持つひとりひとりが、夜の呼子浜港に(死者たちによって)呼び出される。
そして、《死者に呼ばれた》という以外何の共通点もない人々の、「触れ合い」がここには確かにある。人間関係の入り組みも良くできている。
笹山兄弟の設定と演技はややクサイものがあるが、まあ、必要な配置なのでしょう。
これらのお膳立ての後、その連絡船・呼子丸が海面に浮上してくる場面は息を呑む。そして、愛する人にさよならを言い忘れた死者たちが、一人ずつ波止場に降りて来る。
それぞれの束の間の逢瀬の中に、家族愛、性愛、セルフィッシュな愛など、幾つかの生々しい愛が見せられる。
呼子丸から降りて来ない黒服の女(原田知世)は、映画「Always」の中でオードリー・ヘプパーンが演じた天使、或いは《死の女神》を連想させる。彼女の存在は、単調になったかもしれないこの逢瀬の時間と、浮いた存在になったかもしれないルミ(朱門みず穂)をうまくまとめている。
やがて、さよならを言わなくてはならない時間がやって来る。永尾要治(峰岸徹)が妻子と別れる場面は非常に辛い。僕はほとんど目に涙を浮かべていた。
そして最後、乗客を載せた呼子丸が再び海に沈んでいくシーンは、さらに感動的だ。
人生のそこかしこで痛感する、
《もう、これが最後なんだ、もう、元には戻れないんだ》
感覚の決定的なヤツがここにあり、そして全員がそれを強く意識している。
大爆発とカーチェイスのハリウッド映画とは異なり、「日常」にとても近い情景を描きながら観客を「非・日常」に連れていってくれる(「異人たちとの夏」もそうだった)大林映画を満喫した、日曜日の僕だった。
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付け加えますが、老夫婦の夫役・植木等(妻は津島恵子)の演技が素晴らしかった!
彼は某映画大賞の「助演男優賞」を受賞した。