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半田でカブトビール【3/3】レンガ造りのビール工場跡で乾杯!

【2/3】からつづく…

カブトビール、知ってます? ……知らないかな?
いや、かくいう私もつい最近、この半田遠足計画立案中に見かけたのが初見でした。

新美南吉記念館から徒歩で30分ほど東に進み、名鉄河和線の住吉町駅を越えて間もなく、赤レンガの大きな倉庫が見えてきます。
我々遠足隊も歩く予定だったのですが、連休初日のこの日、予報に反して午前中小雨が降っていたこと、そしてビヤホールが意外に早く店じまいすることを知り、軟弱にタクシーで向かいました。

半田赤レンガ建物です:

横浜の赤レンガ倉庫より、小さく、かつ古い。

よく知られる横浜の赤レンガ倉庫は、その名の通り倉庫として建てられました(1911年)が、半田の方はそれ以前、1898年(明治31年)ビール工場として建てられたものです。

明治から大正にかけて、日本には五大ビール会社がありました ── いや、これは知ったかぶりだな ── あったそうです。
現在まで続いている、
『アサヒ、キリン、サッポロ、ヱビス』── そして、もうひとつが『カブトビール』でした。

ジャーン! 敷地内に立ってます!

カブトビールは愛知県半田市で明治32年に誕生しました。

そのルーツは、【1/3】に書いた『中埜酢店(現:ミツカン)』の4代目中埜又左衛門と、その甥であり、敷島製パンの創業者となる盛田善平が設立した丸三麦酒醸造所から発売した明治22年に丸三ビール、そして10年後に銘柄を加武登麦酒カブトビールに改めました。

少々脇道に逸れますが、盛田善平は知多半島の反対側、現在の常滑で酒造業を営んでいた盛田家の出身でした。
盛田家は、江戸初期1665年から続く造り酒屋で、ソニー創業者の盛田昭夫さんはその本家15代目の跡取りでした。

知多半島の老舗豪商・中埜と盛田が共同で立ち上げた半田の『カブトビール』は、東京のエビス、横浜のキリン、大阪のアサヒに伍して競争するため、宣伝に工夫を凝らしました。
1900年(明治33年)のパリ万博に金牌を受賞し、東海地方では最もシェアの高いビールだったそうです。

── しかし、カブトビールは時代の波に呑まれていきます。

1906年、大阪麦酒(アサヒビールの前身)、日本麦酒(恵比寿ビールを製造していた)、札幌麦酒(サッポロビールの前身)が合併して誕生した大日本麦酒により、市場占有率は7割に近づきました。この会社はさらに中小を呑み込んで膨らみ、ついにカブトビールの製造会社も1933年に合併されてしまいます。

現代ならば独占禁止法に抵触するでしょうが、当時はむしろ「国内の過当競争排除と輸出の促進、 資本の集中化」を目的に合併勧告が出されたのです。
さらに太平洋戦争の戦況が悪化した1943年になると、ビールメーカー各社の商標が廃止され、どの会社もラベルは「麦酒(家庭用・業務用)」に統一されたそうです。

『多様性』を排除する ── 悲しい歴史ですね。

そして1943年、当時の大日本帝国による企業整備令の適用で半田工場は閉鎖され、カブトビールの製造は終了します。
その短い生涯に多くの児童文学を残した新美南吉が亡くなった年でもあります。

さて、遠足隊に戻りましょう。

半田赤レンガ建物の中は、売店、ミュージアム、そしてビアホールになっており、ここで明治時代のレシピを忠実に再現した『復刻カブトビール』を飲むことができます!
復刻は、カブトビール誕生から100年余り経った2004年(平成16年)のことでした。

ここがビアホールです!

遠足隊の女性陣は、
『よみがえる旧カブトビール工場』
と銘打った展示室の方に直行しました。
『4大ビールメーカーに果敢に挑んだ起業家たちがここにいた!』と書いてあります。

この向こうがビール工場の歴史をたどるミュージアム

展示室にも心惹かれつつ、我々男組は、ラストオーダーまで時間の限られる中、やはり……

左が大正、中が明治カブトビール(瓶)、右は大正カブトビール(生)
明治カブトビールに『兜』の絵が描かれているのに注目!

復刻カブトビールは、アルコール7%の本格ドイツビール『明治カブトビール(パリ万博出品!)』と、同5%のクラシックラガー『大正カブトビール』、それぞれ瓶と生があります。
確かにノスタルジーをかきたてる味でしたね。

女性陣はこの場で飲まなかった代りにお土産に瓶ビールを買っていきました。

カブトビールについては半田市、および、復刻版を製造している『ビアシティ南知多』のHPをご覧ください。

こんな復刻版ポスターも至る所に……

うーん、大正……なんでしょうか?

乾杯!

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