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哲学な日々



ヤスパースという哲学者がいる。
彼は哲学することの根源は、
驚異と懐疑と喪失の意識であると言った。
「驚異」から問いと認識が生まれ、
認識されたものへの「懐疑」から批判的吟味と明晰さが生じ、
自己「喪失」の意識から自身に対する問いが生まれる、とのこと。
    ――――『水中の哲学者たち』永井玲衣 202頁


▼▼▼プラトン的小学生▼▼▼


子どもの頃から僕は、
ずっとひとりで考え事をして生きてきた。
何かをずっと考えていた。
それは例えば、
「僕が赤だと思っている色は、
 他の人には同じ赤として認識されているのだろうか。
 僕にとって青と見えている色のことを、
 他の全員は赤と呼んでいないとどう証明できる?」
「この世界というのは、
 培養液に浸かった脳みそが見せている夢でないと、
 どうすれば証明できるのだろう」
といったことだったりした。
「認識」「証明」「培養液」という語彙はもたないが、
ようするにそういう意味のことを、
授業中も下校中も布団の中でもずっと考えていた。

40代になった今、
それが「プラトンの洞窟」という形で、
あるいはデカルトの「グローバル懐疑論」という形で、
はたまた壮士の「胡蝶の夢」という形で、
人類史をとおして縷々考えられてきたことであって、
「この考え」には名前がつけられていたことを知る。
そして「実在論」という形で、
いくつかの種類の「解」が用意されていることも。

でも、小学生の僕はずっと考えていた。
畑のあぜ道をてくてく歩きながら、
野山を駆けずり回って遊びながら、
泥団子を作りながら、
僕はずっとずっと考えていた。
だから異様に忘れ物が多かったし、
異様に人にぶつかったし、
異様に宿題をしなかった。

「この宿題を仮にしたとしても、
 この人生が培養液の中の脳の幻想だったら、
 意味がないじゃないか!」

このファミコンをしたとしても幻想だとは思わないという、
自己都合の哲学的回避思考を存分に働かせて責任をうっちゃり、
僕はぶつぶつと独り言のように、
ずっとずっと何かを考えていた。

もし今この団地の8階から転落して死んだとすると、
世界は続くんだよな。

僕の意識はなくなるんだよな。

ということは何もなくなるんだよな。

世界は続く。

僕は消える。

そこは真っ暗なのか?

いや、真っ暗を認識する脳も消えるんだから、
真っ暗でもない。
無音を認識する脳もないから、無音でもない。

「ない」を認識する脳もないから、
「ない」もない。

「無」だ。

「無」を認識する脳もないから。
「無」もない。

ないだけがある。

いやいやいや、
「ないがある」の後半の「ある」もない。

完全な無。
始まりも終わりもない無。

……

……

……

……

……

怖!!!!!

おしっこちびるそうになる。

こんなことばかり考えているもんだから、
「ホラー」がまったく怖くなかった。
所詮子どもだましじゃないか。
「無」はもっと怖いぞ。

こういうこましゃくれた子どもは、
きっと僕が思うほど珍しい存在ではなく、
各学校にひとりぐらいは、
あるいは各市町村にひとりぐらいはいるのだろう。

ただ、「クラスにひとり」ほど出現頻度は高くないので、
同じ人種に出会うとかなりテンションが上がるのだ。

そして、この「小学生の哲学ぶつぶつ」を、
40代になっても続けている大人というのは、
さらに希少度が上がる。

小学生の段階では「メタルスライム」ぐらいのレア度だが、
40代となると「はぐれメタル」のレア度になる。

僕は大人になってこういう人種に出会うと、
本当に本当に感動し興奮するのだ。
そして親友になる。

心の友よ~!と抱き合って、
ジャイアンみたいに滝の涙を流したいぐらいだ。


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