異臭を放った宝石
ほんのひとときでも 自分がどれだけやったか
窓に映ってる素顔を誉めろ
―――WOW WAR TONIGHT ~時には起こせよムーヴメント~
▼▼▼加齢と自意識の薄まり▼▼▼
自己受容についてあまり考えなくなった。
というか自分について考えることが減った。
「自意識」みたいなものが強く大きく、
もてあまし気味だった10代や20代の頃に比べると、
40代になって僕はずいぶん生きやすくなった。
30代は揺らいでいて過渡期だった。
これってけっこう普遍的なことなのだろうか。
同世代とこの件についてみっちり話したことはないし、
こういうのって個人差が大きいのだろうけど、
なんとなく、そんな気もする。
つまり年齢が上がると自意識問題で悩むことは減る。
40代になったの僕の実感としては、
「自意識」とかどうでも良くなる。
他人が自分をどう思うか、
そんなことはどうでも良くなる。
考える時間が無駄だと思える。
SNSを早めに放り出したのも良かったのかもしれない。
他人が自分をどう思うかなんてコントロールできない。
どう思おうが好きにしてくれ。
思いたいように思ってくれたらいい。
もともと愛想は良いほうではなく、
考え事をしていて人の挨拶に気付かないこともしょっちゅうで、
世間話で盛り上がるのも超絶不得意なので、
第一印象で冷たい人、という印象を与えやすい。
だから一生懸命笑顔を作ろうとした時期もあったけど、
能面のような笑顔は自分も他者も疲れさせるだけ、
と10年トライして分かってからは諦めた。
「愛嬌」というステータスが、
自分の人生には初期設定で与えられなかったんだと。
ないものを欲しがっちゃいけない。
もう、なんとでも思ってくれ。
知らんがな。
こういうふてぶてしさを、
僕は40代になってやっと獲得したのだ。
ずいぶんと生きやすくなった。
しかし、ひとつだけまだ時々悩むことがある。
それは「自分が自分をどう思うか」という種類の自意識で、
これを「自己受容」とかそういう言葉で言うのだけど、
これに関しては時々、悩む。
冒頭で自己受容で悩むことが減った、
と書いたけれど、
今も実は、時々悩むことがある。
他人が自分をどう思うかはコントロールできないから、
早々に放り出すことに僕は成功した。
あらゆるSNSとともにそれを放り出し、
スマホを拒絶することで生活に流入するのをブロックしている。
そのおかげで生きやすくなった。
だけど、自分が自分をどう思うかはコントロールできてしまう。
だから放り出そうと思っても放り出せない。
古の人はどうしても放り出したくて滝に打たれたのだ。
でも結局、放り出せないからけっこう最後まで残る。
そして「自分が自分をどう思うか」は、
けっこう厳しくジャッジする自分が内面にいて、
それが「心の中の神」の役割を果たす。
自分がろくでもない失敗をしたり、
だらしない行動をやめられなかったり、
胸を張れない生き方をしていると思えたり、
そんなときに「裁く神」であるところの、
「もうひとりの自分」が頭をもたげる。
そしてもうひとりの自分が、
自分を厳しくジャッジする瞬間があり、
そんな「駄目な自分を受け入れられない日」というのが、
40代になった今もときどきあるのだ。
体感としては10年前の10分の1ぐらいに減ったけれど、
それでも年に何回か、そういうことがある。
結論を先取りすると、
これに関してはけっこう自分なりに研究してきて、
「自慈心」というのがどうやら大切らしい、
ということが分かってきた。
どういうことが分かってきたか、
今日は言葉にしてみたい。
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