〈表現〉は必ず〈政治〉に負ける、と思った記録。
1ヶ月ほど前に書いていて、あげようか迷った文章。
保坂和志×山本浩貴(いぬのせなか座)の対談に関しては感想のようなものを書いたが、同対談について保坂さんが補足のような文章を書いていた。その文章についてのツイートで、以下のように述べている。
私は、この文章を読んで、瞬間的な共感を覚えた。その後、困難さが滲んできた。読んで最初に浮かんだ困難は、〈表現〉が「商品」でもある以上、〈表現〉は経済的なものでなければいけない、ということだったと思う。
〈表現〉と〈経済〉
〈表現〉は「時代」と対峙するものであると同時に、経済的な価値を持たないといけない。金のかからない〈表現〉もいくらでもあるわけだが、少なくとも、何らかの手段で生活資金を稼がないといけない大多数の人間にとっては必要だ。経済的な価値を〈表現〉が持つには、ある程度の人数の同調が必要になる。多数の人数に訴求するものは、時代の雰囲気をまとわずにはいられないのではないか。〈表現〉が経済活動である以上、時代への同調は避けられず、時代に歩を合わせつつ対峙する、という一見矛盾した態度が求められる。
しかし、この問題に関しては一定の解決はあるように思える。時代が要請するフォーマットのなかで、譲れるものは譲りつつ、対峙するべきところは対峙する、という姿勢は現代の〈表現〉の中に表れているからだ。私がスピッツについて書いた本(『スピッツ論 「分裂」するポップ・ミュージック』)の中で「分裂」という言葉で表したことのひとつはおそらく、「譲れるところは譲り、対峙するところは対峙する」を実行する、あるいは一つの〈表現〉の中で両要素を混ぜ合わせる態度と技術であった。当の保坂和志も、文芸誌に連載し出版社から書籍を出版する小説家として30年ほど経済活動を成り立たせているのだから、既存の出版業界の慣習と折り合いをつけているといえる。もちろん、別の手段でお金を稼ぎ、〈表現〉は経済活動に乗せない、という方法もありうる。〈表現〉と〈経済〉の矛盾は、ある程度意識的に超えられるように思う。
もう少し具体的に検討してみる。〈表現〉における〈経済〉は、多数派の雰囲気と同調しなくても、実は成立する。たとえば、一万人の人間が、一人の〈表現〉者の活動に、月300円、年間3600円を支払ったとする。収入は月間で300万円、年間で3600万円になる。活動費用は個人それぞれやジャンルなどで異なるだろうが、仮に8割が支出に消えるとしても、年間720万円は手元に残る。現代日本社会において、暮らしていけるだけのお金と考えていいだろう。一万人は今の日本人口において、0.01%に満たず、多数派とは呼べない人数である。一万人から支持されるのに、〈経済〉を成り立たせるのに、「時代の雰囲気との同調」は必須とは言えない。もう少し数を減らしても、三千人や五千人の支持でも、調整をうまく行えば経済的に生活できる稼ぎは担保できるだろう。
そこで私は思う。より困難なのは、〈表現〉と〈政治〉の両立ではないか。
〈表現〉と〈政治〉
現代の日本の政治システム、有権者が政治の代表者を選出する代議制民主主義と呼ばれる制度は、多数決で政治の代行者が決定される。日本の慣習では代行者をまとめあげる「党」が存在し、「党」の単位で政治の決定権が動く(と考えられている)。国政において代行者の姿勢を動かすには「党」を動かす必要があり、「党」を変えるとすれば、全有権者の数十パーセントの支持は必要だから、数千万人の支持を要する。「数千万人の支持」は、「時代の雰囲気への同調」なしには考えられない。「雰囲気」を形成しているのは、数千万人単位の人々なのだから。
このように考えると、〈表現〉と〈政治〉を両立させるのは不可能だ。〈表現〉は「時代の雰囲気」に同調してはいけないし、〈政治〉は「時代の雰囲気」の同調なしには成しえない。
ここで当然の疑問として、「〈表現〉が〈政治〉に関わる必要などないではないか」という問いが出てくる。たしかに、〈表現〉に携わる人は〈経済〉を成り立たせる必要はあるが、〈政治〉で勝つ必要は必ずしもない。とはいえ、「生を削る圧力」の強い社会が望ましくないとすれば、政治体制が「生を削る圧力」を示した場合、それに対抗する術は持たなければいけない。
しかし、「生を削る圧力」は、時代の雰囲気の中で醸成されるし、雰囲気は多数派の人間によって作られる。問題は数である。「誰もが生きやすい社会」を標榜して政治を実行しても、それが多数派によって作られる限り、数の圧力は必然として生じるのではないか。「生を削る圧力」に、「時代の雰囲気」に対抗することによって定義づけられる〈表現〉は、絶対的に多数派であってはならない。つまるところ、〈表現〉は〈政治〉の勝利者には成り得ない。
もしかしたら、市政のようなより小さい単位の〈政治〉であれば、〈表現〉の勝利もあり得るかもしれない。それも多数決であることには変わりないし、市政も県政(都政・府政・道政)も国政と不可分ともいえる。甚だ頼りない可能性だ。
私は、冒頭に引用した保坂和志氏の言葉に同意している。「〈表現〉は、時代と対峙するものでなければならない」。だとしたら、〈表現〉に関わる者は、人数と時代の雰囲気で決まる国家の〈政治〉に勝利することはない。代議制民主主義に、勝利は存在しない。数千万単位の多数決における勝利を喜ぶ者は、その時点で〈表現〉からこぼれ落ちてしまう。
敗戦処理として
ここで言っている〈政治〉は「選挙」とほぼ同義であり、「選挙以外の政治の場なんていくらでもあるじゃないか」という反論も成り立つだろう。その場合、すぐ浮かぶ政治的手段はデモや署名だが、両者とも数を集めることなしには政治的効力を持たない以上、やはり数に従う〈政治〉にしかならない。数に従わない〈政治〉となると、例えば多種多様な人と話すとか、市政・県政・国政について詳しく調べるとか、そのような他人への直接的効力を持つかわからない行為くらいしか浮かばない。いずれにせよ、客観的な勝利には結びつかない。
以上の文章は、〈表現〉に携わる人が〈政治〉の数的勝利に喜ぶ言葉を発する、あるいは数的敗北に怒る言葉を発している時に私が感じる違和の理由を明確にするために書いた。自分の中ではスッキリしたので別に外に出さなくてもいいかなと思ったのだが、今読んでも面白く読めたのであげてみることにする。〈表現〉と付き合っていくとするならば、〈政治〉に喜んではいけない。この規則は、政治的立場を問わず適用されるだろう。私の前に現れる〈政治〉は、よりマシな敗北を目指す敗戦処理の場以外にあり得ない。