Shun Fushimi 伏見 瞬

批評家,ライター、文筆の悪魔/旅行誌&批評誌『LOCUST』の編集長→https://locust.booth.pm 12月17日に単著『スピッツ論 「分裂」するポップ・ミュージック』がイーストプレスより出版されます。

Shun Fushimi 伏見 瞬

批評家,ライター、文筆の悪魔/旅行誌&批評誌『LOCUST』の編集長→https://locust.booth.pm 12月17日に単著『スピッツ論 「分裂」するポップ・ミュージック』がイーストプレスより出版されます。

最近の記事

罵倒について

先鋭化すると否定せざるを得ない  結局、文章を書いたりイベントで話したりYouTubeで動画を上げたりするのは、「社会運動」なのだと思った。もちろんビジネスなのだがそれだけでない。自己顕示ももちろんあるけどそれだけではない。社会へ働きかけ、社会を活性化させる欲望がなければ、おそらく批評はやっていない。数を集めて多数派となって社会を動かすという欲望はもっていないから、狭義の意味での政治活動は行っていない。けれど、自分以外への複数の他者への働きかけを念頭に置いていないはずはな

    • 「私」と「シミュレーション」

       町屋良平「小説の死後──(にも書かれる散文のために)──」序文が9月27日金曜に公開されて、絶対に自分が読むべき文章だと確信しながら次の月曜(今日)まで読む気がしなかった。おそらく、読めば暗くなるのを予感していたからだ。実際にちょっと暗い気持ちになった。同時に、やっぱり面白かった。  タイトルからして、自分がやりたいと思っていた仕事と近しい何かを町屋良平さんが始めたことを了解した。まず、その点でうしろめたさがあった。にもかかわらず、自分はその仕事に取り組む気持ちが起きない

      • 『ナミビアの砂漠』と新たな同調性

        映画と賭博 『ナミビアの砂漠』は、新たな同調性についての映画である。映画とは、賭博である。したがって、『ナミビアの砂漠』という映画は、新たな同調性を頼りに投げられたサイコロ以外の何物でもない。以下、証明する。  まずは楽な方から行く。映画とは賭博である。賭博とは、「人間が存在するための技術」(ジョルジュ・バタイユ)である。キャメラ、マイク、編集台(編集ソフト)、フィルム(映像データ)、映写機、スクリーンといった複数の機械を通過した録画・録音断片の集積が、なにかしらの存在へと

        • 最近の読書の混線事情

          「読んだ本の感想をnoteに書いてみませんか?」 と、noteを立ち上げるとまず書いてあることに、今更ながら意識がいった。 読んだ本の感想をnoteに書こうとしていたから。 正確には「読んだ」ではなくて「読んでいる」だけど、一つの本を読んでいる途中に別の読み始めて、気づいたら六冊同時に読んでいて頭が混線してきた。だからと言うわけでもないが、最近の読書事情について書く。 この前「モダニズム」について書いた割には、「モダニズム」についての本を恥ずかしながら大して読んでない。学

          「ゲーム的モダニズム」の素描

          先日の書いたデイヴィッド・マークス『STATUS & CULTURE――文化をかたちづくる〈ステイタス〉の力学 感性・慣習・流行はいかに生まれるか?』について、もう一つ注目すべき要点がある。 インターネット以後に、「ステイタス」が変化した、ということだ。 特にSNS以後、「センスの良さ」によって「ステイタス」に差異を生む、「クールなやつだ」という評価を得ることは困難になりつつある。一つには情報の高速化によって、あまりに速く価値基準の変動が起こる。同時に、それぞれがネットとS

          「ゲーム的モダニズム」の素描

          「加害者」と「被害者」を使いたくない、という話。

          「加害者」と「被害者」は、日常的に使用される日本語になっている。 しかし、「加害者」と「被害者」という言い方は、何かしら問題を含んでいる。そのようにずっと感じている。多くの人がこの二つの言葉をさも自然なもののように使っているのが、ものすごく不自然に思える。嫌な予感がして気持ち悪い、と感触している。 害を加えたものと害を被ったものという二分法は、日常的には無理がある。というか、この二つは容易に反転しうるし、両立も容易である。 「加害者」「被害者」は法律用語なのかと思ったら、ど

          「加害者」と「被害者」を使いたくない、という話。

          ステータスと健常発達

           デイヴィッド・マークス『STATUS & CULTURE――文化をかたちづくる〈ステイタス〉の力学 感性・慣習・流行はいかに生まれるか?』は、私には非常に面白い本だった。読む前から予感していたのだが、ほとんど私のために書かれている本だと思った。  人からの評価・評判の集積「ステータス」を獲得することに、普遍的に人は惹かれている/捕らわれている。「カルチャー」は、「ステータス」獲得争いを巡って作られていく。そのことを、ありとあらゆる地域・種類の文化から証明していく一冊。マッ

          ステータスと健常発達

          〈表現〉は必ず〈政治〉に負ける、と思った記録。

           1ヶ月ほど前に書いていて、あげようか迷った文章。  保坂和志×山本浩貴(いぬのせなか座)の対談に関しては感想のようなものを書いたが、同対談について保坂さんが補足のような文章を書いていた。その文章についてのツイートで、以下のように述べている。  私は、この文章を読んで、瞬間的な共感を覚えた。その後、困難さが滲んできた。読んで最初に浮かんだ困難は、〈表現〉が「商品」でもある以上、〈表現〉は経済的なものでなければいけない、ということだったと思う。 〈表現〉と〈経済〉  〈表

          〈表現〉は必ず〈政治〉に負ける、と思った記録。

          音楽は「楽しく」ない -渋滞と無感覚-

          1.  私にとっての「音楽」について書いてみる。もしかしたら特殊な事例かもしれないが、何らかの参考になる気がするので公表する。 「音楽は「音を楽しむ」と書く。だから楽しいものだ」みたいな言葉をみると、沸騰的に苛立つことがある。まず、熟語漢字を一文字ごとに意味で解釈する仕草への違和感がある。「最幸」のような当て字の不気味さに近い感覚かもしれない。ただ、それ以上に、自分にとって音楽は「楽しい」だけでなく、つらく険しい体験を伴うものでもあるから苛立つ。もちろん「楽しい」が間違っ

          音楽は「楽しく」ない -渋滞と無感覚-

          保坂和志・山本浩貴(いぬのせなか座)トーク中に頭の中で跳ねていたあれこれ

          「小説的思考塾」の保坂和志・山本浩貴(いぬのせなか座)トークに行ってきて、二人の話を聞きながらメモをとったり、懇親会で山本君と立ち話をしたりしたので、そのとき考えたことなどを書いてみる。山本君の大著『新たな距離――言語表現を酷使する(ための)レイアウト』の出版に紐づいたイベントである。  創作が、主体的創造性(いわゆるオリジナリティ)から発するものではなく、個人の主体的創造性は西洋近代特有の幻想である、というのは議論の前提になっていたと思う(この前提が共有されないまま発せら

          保坂和志・山本浩貴(いぬのせなか座)トーク中に頭の中で跳ねていたあれこれ

          『破壊された女』の覚書

          サブタレニアンでお布団『破壊された女』を観た。 劇場の上の階は空手教室になっていて、子供が空手をしていて、親御さんたちが外から見ていた。 『破壊された女』は2019年の初演当時評判になっていたのを見逃したから、ずっとみたかった。 後ろの壁は黒く塗った木の板で、全体が黒に統一した劇場。 5〜6年前に来た時は白かったイメージがあるのだが、記憶違いだと思われる。 客席には若い人も中年の人もいる。20人ほど。女性も何人かいる。 『破壊された女』は、一人芝居で、「女は〜〜す

          『破壊された女』の覚書

          (今こそ聴きたい!)Los Campesinos!のリリシズム、およびその政治性について

           ここ数日、シカゴのインディーバンドFrikoが話題になっている。ブライトアイズやキンセラ兄弟(Joan of arc,American Footballなど)を受け継ぐ、裏がった声とハードコアとカントリーを掛け合わせた(ざっくりとエモ的な)コード進行、潰れたギターと太鼓の感触。絶妙なバランスのソングライティングに私自身も夢中になって、何度も聴いている。聴いている中で気づいたのは、ウェールズ出身のインディバンドLos Campesinos!との類似性だ。  Los Camp

          (今こそ聴きたい!)Los Campesinos!のリリシズム、およびその政治性について

          Gustave Flaubert『La légende de Saint Julien L'Hospitalier』(『フローベール『聖ジュリアン伝』)仏語精読

          フローベールのフランス語読書を、noteとTwitterのスペース機能使いながらやってみようと思います。スペースで話して、気になったところをnoteに記載していくスタイルでやろうかと。 作品は「La légende de Saint Julien L'Hospitalier」、「聖ジュリアン伝」です。短編集『三つの物語』に収録された一作です。翻訳は蓮實重彦が1971年に翻訳したものが現在講談社文芸文庫に収められています。 フランス語はkindleで購入した『Gustave

          Gustave Flaubert『La légende de Saint Julien L'Hospitalier』(『フローベール『聖ジュリアン伝』)仏語精読

          これまでの「かぶふら」

          「歌舞伎町のフランクフルト学派」もはじめてしばらく経ち、そこそこの蓄積が出てきました。そうすると、前提が増えてきて、「名前は見たことけど一体何なの??」と思う方も出てくるはずです。名前を見てすぐ何をやってるかわからない。そう感じる方もたくさんいるでしょう(ごもっともです)。というわけで、2022年5月に始まった歌舞伎町のフランクフルト学派、通称「かぶふら」の今までの経緯をこちらに書き残していきます。「かぶふら」の文脈とか雰囲気が少しでも伝わると嬉しい! 歌舞伎町のフランクフ

          これまでの「かぶふら」

          とにかく、目が痛い。

           毎日、目が重たい。朝も昼も夜も寝る前も、目が重たい。  理由ははっきりしている。スマートフォンとPCを見ているからだ。自分の目や視神経は、とにかくPCの画面のライトからダメージを受けるようにできているらしい。今も、目の奥から頭にかけて痛む。   現代の、2023年の社会で生きるのに、スマホとPCから逃れる術はない。会社では資料を作ったりメールを送るために日中パソコンをみており、友人とのやりとりはLINEやDiscordで行う。わたしは日中の仕事とは別に文筆やトークの仕事もし

          とにかく、目が痛い。

          Late for Brunch vol.1の記録

          小川町 POLARISで行われた『Late for Brunch!: zappak label showcase 01』 に足を運んだ。 POLARISは不思議な場所で、正方形に近い、外から見えるガラス張りの部屋で、演者と客席が斜めに対峙する。ライブハウスのゴツッとしたイメージからは遠く、もっとラフでフランクな気配が流れているのだが、スケジュールのラインナップを見る限りゴリゴリに実験的な音楽の場になっている。面白くて心地よい場所なので、なるべく続いてほしいなと思う。 『L

          Late for Brunch vol.1の記録